2015年7月31日金曜日

本日の魔法の呪文 83


"普段の自分なら決してしないような行動を取るとき、
それは、もしかしたら、非常に抑圧した人の感情を、
あなたがかわりに解放していたのかもしれません。
の場の気まずい雰囲気を、
あなたの笑いが吹き飛ばしたのかもしれません。
または、パンパンにふくらんだ風船のように押し込められた感情が、
あなたを通して爆発したのかもしれません。"

エンパシー  ローズ・ローズトゥリー 埴原由美訳 P83より抜粋

ある場において、挙動不審なふるまいをする人があらわれたとき、
それはただその人が独り狂っているわけではない。
たいてい、その場全体が持つ歪みを、敏感な体質であるその人が代わりに、
癌細胞のように全部吸い込んで大げさにふるまってくれているだけ。

びっくりするような残虐な事件も、
たいていは、渦巻いていたエネルギーをその人がたまたま体現してくれただけ、ということ。
戦争なんかは、それが大がかりに起こって、大規模に浄化が必要な証だとわたしは思う。

ローズさんのこのエピソードと同じような話は、
微細なレベルから、かなり激しいレベルまで、
日常的にそこらじゅうで発生している。

そういう場面に遭遇したにもかかわらず、
とかげのしっぽ切りのような対応をし続ければし続けるほど、
その歪みのつけは、自分で払うことになる。

しっぽを切らずにかかわる方が、結果的に守られることになる。
大きな問題に雪だるまのように膨れ上がる前にストップをかけることができる。

わざわざ、自分から武器をふりまわすことをしなくても、
宇宙が味方をしてくれるようになる。

2015年7月30日木曜日

本日の魔法の呪文 82



"丸太という円から切り出した角材は正方形だった。
それは丸太を無駄なく、最も合理的に利用するために見出した形だった。
自然の恵みである樹木は有限の存在である。
その有限の中に、日本人は無限なるものをみていた。"

雪月花の数学 桜井進 P55より抜粋

日月神示でも、〇の中に□だ、という一節があるけれど、
白銀比(1: √2 )は、丸太から効率よく角材を切り出すときの方法論。
円の直径が、角材の対角線になるとき、対角線が√2となる。

桜沢さんの陰陽論においても、
第一世界と、第二・第三世界の対比が言及されているが、
第二・第三世界の有限をわきまえることなくして、
第一世界の豊かさを味わうことはできない。


逆にいうならば、第一世界の豊かさ=愛の世界を知らない人は、
第二・第三世界の有限の世界で、足るを知ることは永遠に無理。

愛の世界を知らなくても、あるのではないか、と信じてみる強さ。
何の保証も見返りもお得感もなくても信じてみることができた人だけ、
次の世界が開ける。

どういう境遇の人ならやりやすい、というのはほんとないよなぁと思う。
富む人も貧しい人も、病める人も健やかなる人も、
信じる気がないならみんな同じこと。。。

2015年7月29日水曜日

本日の魔法の呪文 81


" 私が学んだのは、
私の感情的な苦しみは決して他の人のせいではないということです。
それは私の夫のせいでも、子供のせいでも、
両親、友達、あるいは雑貨店で出会う誰かのせいでもないのです。
それはいつも私にだけかかわることなのです。
他の誰かが何を考え、何をしようとも、
それは私には関わりのないことです。
それはつねに彼ら自身のことです。
何という信じがたい安らぎ!"

四つの約束 コンパニオンブック ドン・ミゲル・ルイス 大野龍一訳  P208 より抜粋

自分の内側にある平穏は、誰にも奪われずいつもそこにある、
ということを忘れないこと。

そのことを忘れなければ、よくわからないまま受け取ってしまったトランプのババを、
そのまま誰かにおしつけ、それが永遠に循環してしまうような
悲しい連鎖を止めることができる。

チェーンメールというのは最近もうあまりきかなくなったけど、
たくさんの人に回さないと自分が呪われる、といった、
あのババ抜き感覚が、世の中の意味不明な争いの根源だと思う。

いくらそこに呪いのエネルギーが込められていようが、
こちらが受け取らなければ、それはそのまま通過していく。
過去に受け取ってしまったものも、自分で解除すればいい。


ババに付加されている意味を消去し、
むやみに次に回すのを自分で止めることができれば、
誰よりも自分が一番安らぐ。

2015年7月28日火曜日

本日の魔法の呪文 80


"心地よいと感じるよりも少しでも速く動いているのに気づいたら、
その背後に何がひそんでいるか確かめてみよう。
学校で「速ければ速いほどよい」と教わらなかっただろうか?
仕事や日常生活での圧迫感から、
なにごとも速くすませるようになってしまったのだろうか?
その時、どんな感じがするだろうか?"

近視は治る ジェイコブ・リバーマン著  飯村大助 訳   無理なく学ぶ方法 P292より抜粋



速く動くことに慣れすぎている。
何か違うなと思っても、動かないで立ち止まることはほんとうに勇気がいる。

立ち止まって、速さを放棄したとき、
一瞬、まわりから置いて行かれてしまったかのような錯覚に陥る。
不安や恐怖が渦巻く。

けれどそれらは単なるがらんどうの幻想。
いろいろな不穏な気持ちが渦巻くまま、そのまま内なる目を凝らし続けていると、
だんだんと自分との同期が取れてくる。

不穏だったのは、速く動きすぎて、自分と切り離されていたから。

2015年7月27日月曜日

本日の魔法の呪文 79



"直観的な正しさとは、横揺れ(横方向の加速=動揺)に対して、
柔らかく姿勢を保つということだ。
平衡感覚は一つの現実感であり、
これが失われて、めまいがするような状態では人は不安になる。
平衡感覚の安定は、不安定な現実感(乖離的意識)を安定の方向に導いてくれるものだ。
(略)


「飲み込めない(納得できない)」という消化器的反応は、
何かよくわからないけど感覚的に違和感が残るということにつながる。
こういう身体的直感は無視しないほうがいい。"

片山洋次郎 ユルかしこい身体になる P221より抜粋


腸が長いということは、
それだけ直感を担う領域が繊細で奥深いということだと思う。
なのに、それを鈍らせるような食生活ばかりを好んでいると、
腸が短い人々よりも、
ひどい勢いで直感が鈍る。

直感が鈍ったことで困った体験をしたことがない人は、
徹底的に困るところまで突き進むしかないのだろうな。

わたし自身も、振り返ってみると、徹底的に困るところまで行ったから反転した。
困ってない人に、この話をしたって、馬の耳に念仏。











2015年7月26日日曜日

本日の魔法の呪文 78



"肉体の感覚を満喫している人々は私を哀れみますが、
それは私の生活の中に私が喜んで住んでいる黄金の部屋がある
ということを知らないからであります。
なぜならば、私の行く手は彼らには暗黒のように見えますが、
実はその反対に心の中に魔法の光を宿しているからであります。"

ヘレン・ケラー 岩橋武夫 訳 わたしの生涯 P453より抜粋

ヘレン・ケラーの世界観は、
赤毛のアンの世界観に近いなと思って読んでいた。

わたしがパリに旅したとき、
建造物や彫像などにあまり興味を示さない私に対して、
同行した友人に「アワポンは何も見てない」とどやされたことを今でも忘れないが、
ヘレン・ケラーやアンが感知している世界の豊かさを、逆に言えばその友人をはじめ、
多くの五感に閉じ込められている人々は知らないのだ。

そのことを、最近あらためて、
いろいろなかたちで確認することが続いている。
その領域を、一切「なかったこと」にして生きている人々と、
わたしは世界を分かち合うことはできない。

2015年7月25日土曜日

本日の魔法の呪文 77



"江戸時代、鎖国で内に籠ったことがむしろそれまでになかった日本文化の成熟につながりました。グローバル社会といわれる現代においても、こうした内へ籠って発酵するエネルギーが、まったく新しい文化を生み出すかもしれません。"

日本画 名作から読み解く技法の謎 東京芸術大学大学院 保存修復日本画研究室/監修
P196より抜粋


自分の目指すイメージに近づく、
論理的で明確な、フローチャートのような道筋というのはほんとうにないなぁと思う。
あきらめて、とりあえず、日々やれることをやり続けて、
そしてあるときふっとひらめいたことをそのまま実行したときに、
びっくりするくらい、描いていたイメージがそのまま具現化されることがある。

今日は友人から、マヤの時間をはずした日と天神祭が同じ日っておもしろいね、
というコメント付きで、素敵な虹の写真をいただいた。

そしてまた、ひょんなことから素敵な友人がまたひとり新しく増えた。

毎年7月25日は、わたしにとって因縁めいている。

今年はほんと、いろんな意味で集大成。
気合いいれて、本気出していくのだ。

2015年7月24日金曜日

本日の魔法の呪文 76


"「蛇を敬うことをお忘れなさるな」ランプを持った老人がいいました。
「あなたはご自分の命を、あなたの民はこの橋を、蛇からもらったのです。
この橋によって両岸がつながり、一つの国として活気づきました。
あの、ただよい光っていた宝石、蛇が犠牲にささげたそのなきがらが、
このりっぱな橋の基柱となり、その上に、蛇はわが身で橋を築きました。
後々まで小ゆるぎもしないでしょう」"

メルヒェン   ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ  乾侑美子 訳  P54より


欠けたものどうしの引き合い、
相互依存はもういやだ、
ということがはっきりわかると、
欠けたもの同士での取引を望む人や場とのかかわりが起こらなくなる。

かかわりたくても、逆に嫌がられてもう関われない(笑)

ここまでくれば、もう大丈夫。
蛇は橋に変わったのだ。

2015年7月23日木曜日

本日の魔法の呪文 75


"第一の世界は無限の遠心力の宇宙である。
第二、第三は有限の求心力(引力)
の世界である。
富や、権力や、地位や、知識や
あらずもがなの腕力、暴力を頼みとする人の世界である。

P115

科学や哲学は、
この小さい小さい第二の世界の
万有引力から原子の世界までの研究、
あるいは第三の世界の
一微分である人生、人間の世界の研究に没頭して、眼を上げて
第一の無限界を見ることはゼッタイにしない。
宇宙が無限である、と云うことは理解できない。
だから、カレラの宇宙はこの第二の物の世界であり、カレラの無限は、
分析の無限である。"

P109


宇宙の秩序 桜沢 如一 日本CI協会  より抜粋


宇宙の絶対的な法則、というものをあると思うのか、
そんなものはあるわけないと思うのか、
このことで生き方の軸は大きく異なると思ってます。

腕力や暴力や武力によって善悪が裁かれるのではなく、
宇宙の法則に合っていない生命体は、自然に生き残れなくなる、というのが
もともと、黙示録をはじめ、宇宙の法則を理解した人々が本来伝えたかったことだと思います。

2015年7月22日水曜日

本日の魔法の呪文 74


"続いて、フォーラムの数百人の参加者が一斉に話し始めたように見えた。
みんなが言い争っている二人の男性たちに向かって叫んでいた。
二つの視点、KKKとリベラルには、ひとつの共通点があった
-両者ともに「相手の話に耳を傾けるべきではない」と主張していた。"

アーノルド・ミンデル 監訳 富士見ユキオ 訳 青木聡 ディープ・デモクラシー P188 より抜粋

絶対にみないでいたい領域、
受け入れないでいる領域、
というものを固辞した状態での強烈な純度の高いパワーというものは、
まるで精白した食品が、
とりあえずカロリーだけは高いのと同じように、
力の掛かり具合にちょっと変化やずれが起こると、とても脆い。

8ハウス(蠍座や冥王星的)は、強烈なパワー、と言われるけれども、
この閉塞的な力は、単に100あるエネルギーを、
100ゆったり入る入れ物ではなく、
30しか入らない入れ物に無理矢理圧縮して押し込み、
その濃さで威圧する、そんな感じに近いかもしれない。

つまり、パワーの質があまりよろしくないのだ。

そういう、無理矢理加圧されることに慣れすぎてきたわたしたちは、
その加圧がふっとゆるんだあと、しばらく放心状態になる。

そこから、自分本来の、ゆるやかで自然な力がわきおこってくる様子を、
せかさずにあたたかく見守ることは、ほんとうに忍耐が必要。

2015年7月21日火曜日

本日の魔法の呪文 73


"私たちの教育制度は、
標準化した学習プロセスに子供の心を順応させようとする
(眼科医が私たちの視力を正しく「矯正」するのと同じことだ。)
この制度は自分なりの意味や目的を見つけようとする子供の欲求を否定する。"

近視は治る 心と視力のメカニズム  ジェイコブ・リバーマン 飯村大助 訳 P277より抜粋

かなりゆるめていた眼鏡の度数を、またさらにゆるめてみた。
乱視を全くいれず、近視の度合いもかなりゆるいままにしてもらった。

そんなわけで、かなり裸眼に近い状態。

最近文字入力の作業が続いていたので、メガネをかけている時間が長く、
そのせいでかなり疲れていたということに気づく。

まだ新しいレンズに目が慣れないけれど、
きゅっと締めつけられるようなしんどさ、視野や考え方が一気に狭まる感覚が、
かなりましになったように思う。

目の機能を補って甘やかすことをやめるということは、
逆に心を解き放し、ゆるめることになる。

何がほんとうの意味での優しさや快さなのか、あらためて問い直したい。






2015年7月20日月曜日

本日の魔法の呪文 72



" いわゆる確実で厳密な真理というものを求めた人々は、
特定の種類の「傷」を帯びているのではないか。
その傷の隠蔽から生まれる特定の種類の「不安」から、
確実性と厳密性への渇望が生まれ、
これがいわゆる「科学」や「哲学」を生み出してきたのではないか、と私は思うのである。
(略)

もしも、魂の傷に「よりマシ」なものなどないとすれば、
古代の聖人の教えるように、
自らの魂の帯びる傷そのものから目を背けぬように努力し、
自らを治癒し、
成長させていくこと以外に、
真の智慧に到達する道はない、ということになる。

これが「魂の脱植民地化」の必要性の根拠だと私は考えている。"

合理的な神秘主義 生きるための思想史  安冨 歩  P290 より抜粋

ものすごくものすごくおおむかしには、
「かたち」というものは、
ほんとうにイチから自分で生み出さないと存在し得ないものだったから、
何かがかたちとなって具現化される、ということにすごく大きな意味があったし、
それをすることがすごいこと、だったように思う。

けれど今は、かたちはいくらでもそこらじゅうに転がっていて、
自分でかたちを生み出す隙間がほとんどない。
ほとんど、既にもうその辺に転がっている形骸化した記号を拾い集め、
また並べ替えるくらいしかできない。

命のエネルギーを、自分と世界との間で循環させることが、
何かを生み出すことのおおもとであるとするならば、
今は逆に、あえてかたちにしないで循環を生じさせることに、
いちばん熱くほんもののエネルギーが流れるのではないか。

そういう風に感じるのはわたしだけかもしれないが、
現時点のわたしにとってリアルな感触はこれなのだ。
これがすぎたら自然に、かたちに落としたくなる時がくるだろうが、
このよくわからない見えない世界をしっかり通るということを経ないと、
次がない。

人によってきっと、そういう時期は必ず巡ってくる。そういうものなのかも。

2015年7月19日日曜日

本日の魔法の呪文 71



" 暴力を深く感じると、そのエッセンスを発見しない限り、
苦しみは消え去らないことが分かるだろう。
「私たちは単に復讐しているのではないことに気づいてください。
私たちは平等を追求しています。」 "

アーノルド・ミンデル 訳 青木聡  監訳 富士見ユキオ  ディープ・デモクラシー  
第10章 戦争の予防 P256  より抜粋


今日のお絵描き、横向きに描いて、横向きにアップロードするはずが、
この向きから変わりません(笑)
「8」に見えてしまうこの状態で感じろ、ということのようです。

わたしたちは安穏とした世界に生きたいという理由で、
やっかいなエネルギーをすっぱりシャットアウトする。切り捨てる。みないふりをする。

けれど、その切り捨てたことで余計に、自分の中に不安や緊張が渦巻く。

その切り捨てたものをちゃんと拾い上げ、
一体何を訴えているのか、
に向き合って葛藤を引き受けたなら、
その後に深いほんとうの意味での平等と平穏がやってくる。

「自分とは関係ない」が全ての暴力のはじまり。

2015年7月18日土曜日

本日の魔法の呪文70


"「原子力とオカルトとは共に、熱力学第二法則を乗り越えようとする幻想という点で、
同じ論理構造を持っている」"

原発危機と東大話法  安冨 歩  P242 より抜粋


理性や論理で説明がつく世界
(トナールだとか、パラサイトというメタファーも同じことだろう)は、
それで筋が通っていようとも、
宇宙の法則からはずれていることがたくさんあります。
そこのところまで綺麗に辻褄が合うとはどういうことなのか、
ということを、生きている間に理解するということは、ほんとうに困難。

だけど、立場主義なスタンスから離れると、
このあたりのことがかなり見えるようになります。
わたしが他の人々より明確に冴えている点があるとすればこれ。

大体、無謀にもありとあらゆる立場をかなぐりすてたくなった原動力が、
自分でも謎。今でも謎。なんでそうしたかったのか(笑)

そういうことに突き動かされた人達ならではの世界というものがあって、
そこに入りたい人は、興味本位では入れない。
花咲かじじいの灰のように、灰だけ奪っても別の効能が生じてしまう。

オカルトというものは、そういう要素を自分の責任の元引き受けられない人々に、
安全に味わってもらうために、代償とひきかえに劣化した魔法を提供する、
そういう世界ではないかなと思う。

そういう役割で食べて行ったらいいのか、と一瞬思った時期もあったけど、
おもしろくなくなったのでもうやりません。

2015年7月17日金曜日

本日の魔法の呪文 69



"私は彼女を見ながら、自分の菜園で植物ととても親しく交流している彼女が、
なぜ重い病気にかかっているのか、そのことについて深く考えようとしなかった。
(略)
もし、私が彼女の体に癒しを行っていなかったら、彼女は最もふさわしいときに死んだはず。
美しい夢と希望の中で。それなのに、そのあとの彼女は孤独すぎる中で生きていた。
これは肉体の死よりもずっと悲惨。その二週間後に彼女は亡くなった"

響きわたるシベリア杉2  癒しが悲しみをもたらすとき  
ウラジーミル・メグレ 著 水木綾子 訳  岩砂晶子 監修 P44-45  より抜粋


今日は一日中台風の影響で雨がすごくて、湿気が好きでないわたしは
かなり参っているのだが、
息子が突然ベランダに出て、「ママ、この植木さん倒れてたし!」と言って、
植木鉢を部屋に持ち込んできた。

お恥ずかしいことに、わたしがちゃんと植え替えをしないことでバランスが悪くなり、
転倒したまま放置されていたその植木は、もう枯れ木になっている。

息子に「それな、、、もう今から水やりしてもな、もう枯れてるねん。
ママがちゃんとお世話しなかったから。ごめん。」
と言うと「いいの!それでもいいの!」と枯れた植木を縦にして窓のそばに置き、
「樹さんかわいそう」と泣いていた。

そして、息子は雨が大嫌いだから、
「今日は雨やし、遊びに行くの大変やな」とわたしが言うと、
「いいの!樹さんにとったら、お水は大事やねんから、雨は大事やの」
と言って、じっと外を眺めていた。

そのあと、何事もなかったかのように、
誘いに来た友達とだーっと外にでかけてしまったけれど、
彼がときどきふっとみせる、世界へのあたたかいまなざしに、
わたしはいつもとても気づきをもらう。

そんな彼はいつも、ゲームとyoutubeと、テレビ大好きだ。
今も嬉しそうに動画を見ながら歌っている。

つくづく、自然ってなんやろなと。

2015年7月16日木曜日

本日の魔法の呪文 68


"ベルイマンは当時たびたびドイツに行くことがあったのに、
一九四五年になるまで国民社会主義(ナチズム)
の正体を見破ることができなかったと後悔を込めて語っていましたが、
それも、ベルイマンのこの子ども時代を考えれば、
当然のように思われます。
残酷さはベルイマンが子ども時代から呼吸し、
なじんでいた雰囲気だったのですから、
どうしてそれをおかしいと思うはずがあるでしょう。"

アリス・ミラー  山下公子 訳  才能ある子のドラマ 真の自己を求めて P130 より抜粋

自分の感情さえ放り投げずに生きることができたなら、
ああ、生きていて良かったなぁ、
と思えるときが必ず来ます。

そして、それを他人と分かち合えるときも必ず。

ああ、放り投げて生きてしまっているなぁと気づけたなら、また取り戻せばいい。

取り戻す覚悟を決めたなら、
感じなくすることで乗り切れていた、逃げきっていた要素に立ち向かわねばならない。
感じることを取り戻すと、悶絶するような辛い過程を一時必ず通ることになる。

今までにこにこと表面的につきあえていた人達が、
一気に豹変してさーっと周りから離れていく。
いきなりろくでなし、人間に非ず、といわんばかりに罵倒されたりする。

そこを通ることでやっと、
ああ、自分はどれだけ偽物のの関係に囲まれていたか、にはっと気づき、
更地にすることができる。

ここを通ったことがある人同士だから分かち合える世界というものがある。

今その真っ只中で、
真っ暗闇を一人で手さぐりで歩いているような気分の人もいるだろう。
大丈夫。
その先は必ず、あたたかい世界が開ける。

2015年7月15日水曜日

本日の魔法の呪文 67



"前世でのあなたは、演繹的な方法で目標を達成してきました。
つまり集めた情報と周囲の人々の希望を総合評価して結論を出してきたのです。
(略)
前世ではうまくいったこの方法は、
残念ながら今生のあなたには使えないことになっています。
使えるのは帰納的な推論の仕方です。
(略)
今生でのあなたは非論理的になってよいのです。
過去に論理を駆使しすぎたため、
どんなものにも真実を引き出すことができ、
結果としてあらゆるものに「それなりの正当性」を認めてしまうのです。
このため今生でのあなたは、
どんなに論理を駆使しても正しい結論を引き出すことができません。"

前世ソウルリーディング あなたの魂はどこから来たのか  ジャン・スピラー 著 東川恭子 訳
ドラゴンヘッド 射手座 第9ハウスP374より抜粋


わたしはヘッドが射手座にあるわけではないのですが、
自分がずぶずぶと沼に沈むような状態になるときは、
たいていこのドグマにはまっています。


辞書によると、

演繹的とは、

与えられた命題から、論理的形式に頼って推論を重ね、
結論を導き出すこと。
一般的な理論によって、特殊なものを推論し、説明すること。

帰納的とは、

個々の具体的な事例から
一般に通用するような原理・法則などを導き出すこと。

と書いてありました。

これは、演繹的=他者目線、帰納的=自分軸
という風に言い換えてもOKですよね。

演繹的に筋が通らないことは世の中に基本的にないです。
なにかしら、筋が通ったストーリーで説明をつけることは簡単。
筋が通っていればだいじょうぶ、というのは大きな落とし穴。

今日のこの引用箇所は、
普段から周囲の状態をつかむことがうますぎるタイプの人向けだと思います。
この裏返しで、もっと状況をちゃんと把握した方がいい人もたくさんいます。
(てか、普通そういう人ばかりなのかも、、、)

周囲の状態を的確にいつも察知する人こそ、
察知しているけれど反応しない、ということを大事にする。

そうでなければ、全く察知能力がなく、
ただ傍若無人にふるまっている、
声が大きい人にひきずられてまわっていくことを容認するだけになってしまう。

それじゃ、察知能力があることが全く無駄.............

心の中で、パラサイトがささやく時は、論理で裁いてきます。
そういう声にからめとられないように、
なんか変、むずむずする、というときは、あせらずに行くといいよね。


2015年7月14日火曜日

本日の魔法の呪文 66


"先ほどの専門人の問題ですが、
戦前から戦後にかけて知的な世界で共有されていた感覚として、
マックス・ウェーバーの「情熱なき専門人」っていうあの規定がありますね。
『職業としての学問』の中で言っている。
つまり近代っていうのは、
情熱なき専門人をつくってしまった。
それが日本の資本主義を支える予備軍を形成していく。
その影の部分をいわば裏側から逆照射したのが賢治の人生だったともいえる。"

デクノボー 宮沢賢治の叫び 山折哲雄× 吉田司 
P221 第六章 「銀河鉄道」で行きたかったところ より抜粋


見える色(光)の種類は、かなり個人差がある、と思う。
デジタルカメラが、
オーブが写り込まないようにするのにかなり開発に時間を要した、
というのを聞いたことがあるけど、
つくづく、色への感性は、そのままその人のキャパそのものかもしれない。

昨日のお絵描きも今日のお絵描きも、
写真にしたらもとのものと色味が全然違う。
昨日のは、あまりにも違いすぎたから、
そのまま誇張してまったく違う色に変換してやったのだ。


そんな感じで、とりまく環境の中に自分をおいたとき、それとの兼ね合いで、
かたちとしての自分がびっくりするほど変化してしまうときがある。

一見まわりに飲まれて流されているかのようで、
実ははっきりかたちとして変わる方が、本人らしさを守ることになるときがある。
そのことを恐れさえしなければ、
いつでも自分としてあたたかく楽しく、安定的に生きられる。

そんなことをあらためて思う。










2015年7月13日月曜日

本日の魔法の呪文 65



"そういう点では、
ヒドリはかならずしも花巻地域で使われていた局地的な方言ではなく、
もっと一般的に使われていた公用語であったと、
こう結論しているんです。
この和田文雄さんの意見はきくべきだと思いますね。
説得力があるし、いろんな広がりをもっている説だと思う。
それから、例の「雨ニモマケズ」の詩ですがね、

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

この文章についても、
ヒデリのときは涙なんか流さないはずだ、といっている。
日照りのときは決して農民というのは涙を流さない。
もっとも極端な日照りのときは減収に繋がるかもしれないけれども、
水田の場合はかならずしもそうはいえない。"

デクノボー 宮沢賢治の叫び 山折哲雄× 吉田司 
P230 第六章 「銀河鉄道」で行きたかったところ より抜粋


この山折さんと吉田さんによる対談形式ですすむ解説本、
いろいろおもしろい考察が書かれていてふむふむ、
と読んでいました(わたしにはよくわからない用語もたくさんですが、、)

この中で、「ヒデリ」ではなく「ヒドリ」ではないか、
ということが書かれている箇所を抜粋してみました。

ヒドリ、というのは、当時の日雇い労働のようなもので、
ほとんど公共事業の原型のようなものらしい。
そういうことをしないと食べていけないことへの哀歌、
という位置づけでこの詩を読むと、
確かに納得がいくようにわたしも思いました。
(とはいいつつ、賢治はいいとこの坊っちゃんですからね、、、)


そして、この水はけがわるい土地では、かえって日照りの方が収量が上がる、
というのもすごくよくわかります。
水はけが悪い土地で栽培するのって、ほんと大変ですもん。。。
以前借りていた家庭菜園がまさに、水はけがとても悪かったので、
植えられるものが限られていたことを思いだしました。


この「ヒデリ」という言葉へのまちがった解釈だけでなく、
宮沢賢治を美化する理由のひとつに、ピュアさがあると思うのだけど、
あらためて、うーん、どうなんだろう、、と唸ってしまった。


わたしが女性であるからかもしれないが、
賢治的な意味でのベジというスタンス及び、
童心というものは、ちょっと納得がいかない。
それは単に「未熟」であるだけではないかと。
そして、彼がベジに固執したのも、自分の持つ力を扱いきれず抑圧するために
肉を食べなかった、という気がすごくする。

つまり、ほんとは、お肉が美味しい、と思ってたのじゃなかろうか。

そういうのって、全然ピュアじゃないんだけどなーー

2015年7月12日日曜日

本日の魔法の呪文 64


"ぼくは、ずっと、お菓子屋さんにあこがれていたんだ。
シャーベット・サッカーやキャラメル・ファッジ、
ロシア風タフィー、砂糖スノーター、
バター・ガムボールなんかのいろんなすばらしいお菓子が、
床から天井までぎっしりつまっているお菓子屋さんを、
ぼくは夢みていた。
ああ、このおんぼろグラバーがぼくのものだったら、
ぜったいに手放したりはしなかったのに!"

こちらゆかいな窓ふき会社 ロアルド・ダール作 清水達也・清水奈緒子 訳  P6より抜粋


アンスクーリングに限らず、
インナーチャイルドを健全に取り戻す過程で大事なポイントに、
「アメと鞭」の世界から脱する、ということがある。

ロアルド・ダールの、強烈に甘ったるい白砂糖とバターたっぷりな世界は、
まさにこの、鞭に対比した「アメ」の役割としてかっこうの存在だったのだろうなと思う。
ダールの作品は、イギリスの児童文学界において、
ハリーポッターが登場するまでずっと不動の一位をキープしていたのも、
イギリスの教育事情を考えると納得、な気がする。

わたしは子どもの頃、
強烈なアメと鞭の世界におり、
何かにたずさわることそのものへの喜びではなく、
そのことへの苦痛への代償として強力なアメを求めており、
しかもそれに歯止めが効かなかったように思う。

「〇〇をしたらお菓子をあげよう、ご褒美をあげよう、お小遣いをあげよう」
という動機でなされた「〇〇」は、本人にとってまったく身にならない。喜びを生まない。
なのに、「〇〇」に長けていく。

これがまさに黒魔術のはじまりなんですよね。

長い時間をかけ、この「〇〇」に携われば携わるほど、
元を取らねばという執着が生まれる。
その苦痛をやわらげゆるめるために、「アメ」に匹敵する存在が必要になる。

大人にとってそのひとつに、権力があるだろう。

そのことを、楽しいと思えない人がたくさん増えればいいよ。




2015年7月11日土曜日

本日の魔法の呪文 63



"腸の痛みは、無視することのできないメッセージを伝えるために
からだが利用する信号である。
つまり、痛みもまた知覚のひとつの形なのである。
生理学的に見れば、痛みの経路は、
ある情報を伝える直接的な経路を私たちがふさいでしまったとき、
その情報を伝えてくれる迂回路である。
痛みは、私たちが第一の伝達経路を閉じてしまったときに警告してくれる
第二の知覚経路なのである。
無視したままでは危険な情報を、痛みが私たちに伝えてくれるのである。"

ガボール・マテ 身体が「ノー」と言うとき 第11章 単なる思い込みにすぎない P226より抜粋


今日はほんとは、外でスケッチして、色塗りもしてみたのだけど、
ああなんか違うと思ってやめました。

そういう、思いっきり子どもじみた動機に基づき、
気分屋に徹するということは愚かであり爽快だ。
(自分の責任の元...)

そういう意味で、安易にこの「痛み」「不快感」「安易に身体が動けない」
ということを解決してしまうことは、ほんとうに危険だと思っている。

その身体が発している「ノー」には、ほんとうに深い意味がある。

そこを無視して、安易にその信号を消し、症状を消し、
元のように身体が元気に動けることが「癒える」ことだと勘違いしている人ばかりだ。

だから、どう考えてもおかしなプロジェクトがまかり通ったりしてしまう。
そういうセンサーがぶっ壊れているから。

わたしが次に進むために、耳を傾けて知らなければならないことは、
あと何と何と何なのかな?

とりあえずやれることをやって、ベストを尽くしながら、
もしかしたら一生わからないままなのかもしれない。

2015年7月10日金曜日

本日の魔法の呪文 62


" 芸能とは、ぜったいにウケないといけない世界である。
芸術とは、ウケなくてもやらねばならない世界をもつことである。

あるいはこう言いかえてもいいかもしれません。

芸能とは、ひとびとに広く行きわたることがめざされている世界である。
芸術とは、深く行きつくことがめざされている世界である。"

「美しい」ってなんだろう? 美術のすすめ 森村泰昌 P120 より抜粋


森村さんが、中之島公会堂でやったイベントにでかけたのは、
もうどれくらい前だろう?
懐かしいです。

わたし自身が大事にしたいことは、
これです、と提示したり、
一般的な芸術の枠に入れることもどうやらとても難しそうだなぁ、
と時々気が遠くなりそうなのですが、
森村さんのこの定義、「ウケなくてもやらねばならない世界」というのにはっとしました。

それなら確かにわたしも芸術家である(笑)

宮沢賢治や、レオナルド・ダ・ヴィンチも、捉え方によったら、
大言壮語でなにひとつまともにやりきってないどうしようもない人達、
ということで一笑に付されて終わってしまう。
けれど、森村さんが定義したような「芸術」の視点からみれば、
彼らほど真摯に芸術を生ききった人はなかなかいない、ということになってくるだろう。

あらためて、自分の生き方が「芸能」ではなく「芸術」でありたい、
ということを大事にしたい。

何も、作品を売って食べている人だけが芸術家じゃないよね。
そんなことをあらためて思うのです。

2015年7月9日木曜日

アンスクーリング お話会のお知らせ


アンスクーリングに関するお話会をしたいと思います。

7月27日(月) AM10:00~15:00 出入り自由
参加費は、1家族or大人おひとり 2000円  です。
食事、飲み物は持参してください。建物内に和食ビュッフェもあります。

ちょっとした手仕事を自由にやれる材料等用意しておきます。
好きなテーマがあれば選んでやれる感じにしておきます。

お子さんがいらっしゃらない人も大歓迎です。

場所はやわた流れ橋交流プラザ 四季彩館です。

八幡市駅よりバスがでています。駐車場もあります。
詳しくはこちらをご覧ください。

参加希望の方は、問い合わせフォームよりお願いします。

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Unschooling Gathering at Kyoto Yawata - Join us July 27, 2015

July 27, 2015 AM10:00~15:00
Yawata shikisaikan
charge per family or person: ¥2,000

what to bring: lunch and drink, snacks
(if you'd like, there are Japanese- style buffet restaurant .)

if you want to try, you can make some paper folding, play with yarn, and so on.

contact us: please use inquiry form.

Hello. we are unschooling at kyoto south area.  I have a 9-year old son. and my friend has 4 children.

unschooling isn't popular in Japan.
It's not school refusal, but most people confuse the two.

we 'd like to talk about true feelings and exchange information :)













本日の魔法の呪文 61


"日々の眠りと目覚めについて考えると、
「眠りに入るとき、人間は重さの領域から出て、光の領域に入っていく」
と言うことができます。
光の領域のなかで、十分に長く重さなしに生きると、
再び重さに捕えられたいという憧れを持つようになります。
そうして、重さのなかに戻り、目覚めます。"

ルドルフ・シュタイナー 西川隆範訳  
色彩の秘密 光のなかの生命と重さのなかの生命 P114より抜粋 

睡眠時間をしっかりとると、かたまっていた筋肉がゆるみ、
思考でがちがちになっていた心が、自由に解き放たれる感覚があります。

そのときに、脳の中で起こっていることは、
反対の色同士をお互い混ぜて、別の色にしてしまうような、そんな作業かもしれない。

お絵描きをするとき、暗めの色を混ぜたいと思っても、
ぼんやりと混ぜてしまうと、全体がぼやけてくすんでしまうだけになって、
ああ、台無しになっただけだ、ということが結構ある。

それでも懲りずに混ぜてみるのだけれど、黒い色というものは、
よっぽどしっかり意識して、ここぞというところで使わないと、ほんとうに1滴で
簡単に全部をだめにしてしまう。

そのときに必要な気合いみたいなものと、
心の中でしっかり持ち続けなきゃいけない
意志というか愛みたいなものの取り扱い方は、
たぶん似ている。

そういう意味で、他の人が描いた絵をあらためてみつめてみると、
一見落書きみたいに見える絵であっても、このあたりのことをすごくわかって、
描かれているんだろうな、ということがわっとせまってきてとてもおもしろい。


この感じは、
外国語を修得することと、その国の文化を知ることが密接である感じにそっくり。

2015年7月8日水曜日

本日の魔法の呪文 60



"対話や微細な感情の変化は儲けを生み出さない。
善と悪に二極化することは、微細な自覚よりも単純明快だ。
しかし、計ることのできない重要な変化は、プロセスの中でゆっくりと(ときに迅速に)起きる。"

ディープ・デモクラシー アーノルド・ミンデル 監訳 富士見ユキオ 訳 青木聡 P212 より抜粋


今日はなんだか適当に描いているうちによくわからない花になりましたが、
家の外では紫陽花が相変わらず綺麗に咲いていて、
それと同時に最初に咲き始めた花達が、
だんだん茶褐色に色褪せはじめています。

紫陽花は、花びらが散らず、
色が抜けていき、形だけがそのまま残るので、
なんというか、「形骸化」な印象を強く感じてしまうのはわたしだけだろうか。

友人から、
太陽系より遠いところの星々は、実はエネルギー体みたいなもので、
物体としては存在しておらず、
よく新しい星を発見する人がいるけれど、
あれは自分の想念で新しい星を生み出して、自分で発見しているってこと、
という話を教えてもらった。

わたしが大事にしていることはたぶん、
この新しい星を生み出す事、みたいなものかもしれない。

けれど、地球で命を持って生きている以上、
もっと重力による加圧が必要なのだろうな。

加圧された一番極端な例がパワーストーンや貴金属達だと思うけれども、
そこまでいかなくても、エネルギーからスタートした状態できちんと物質化する。

このことはわたしの一生のテーマとなっている気がします。

2015年7月7日火曜日

本日の魔法の呪文 59


"地域管理がいっそう進行し、
人間関係の領域で誰もが何らかの資格の階段を登ることが奨励されるいま、
平地に足場を徹して暮らすただのおばさん力おじさん力について、
ことさら自覚的に考えることが必要だとわたしは思う。
また、これから社会的な「上昇」の誘いが予想される「居場所」だが、
そのなかにあってあらためて「ただのおとな」に徹し、
資格・専門性・管理社会を撃つ拠点として居直り続けてほしいと願う。

素手のまま偶然の関係のなかで生きるおとなたちが、
網の目のようにつながる力。
その力と中身がわたしたちにいっそう強く問われる時代が、これからやってくる。"

「心の時代」と教育  小沢牧子 P212 より抜粋


なんにも肩書がないまま、人と人が出会うことが、
ほんとうに少なくなってしまっていると思います。

そうであっても、偶然の力で、本来出会うはずのない人同士が引き合う力
というものがなくなったわけではなくて、
そういうものがいまも厳然と存在していることをしっかり自覚すること。

その大前提として、自分をしっかり信頼すること。
ここに立ち戻って、こういう意味でがんばらないとなぁ、とあらためて思う。


ほんとうに「ただの人」であることが
どれほどすごいことなのか。

その凄味。

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手仕事メモ これとか、  これとか。

2015年7月6日月曜日

本日の魔法の呪文 58



" この世界には予期されないことや、
信じ難いことが存在している。
それでこそ、生が全体性を持つ。
私にとっては、世界は最初から無限に広く、把握し難いものであった"

 シャーマンズボディ  分身を育てる P192より 
※この箇所はユング自伝より抜粋


お祭りにおける、
仰々しい神々しさ、おどろおどろしさ、というものは、
わたしにとってfunnyでしかない。
デフォルメされすぎだろう、という。

けれど多くの人は安穏と、
へへーん、
となめきった状態で生きられると思い込んでいるし、
実際そうなのだ。
そういう人達にとって、
ほんとはそうじゃない、
ということを知らせるために、
あの仰々しいお祭りが必要になるのかなと思う。

この「見せてみろよ」的仰々しさが不要になる世界に生きたい。
というか、わたしは既にそういうつもりで生きているけれど。
多くの人にこの感覚が理解されなくて当然。
自分の最大の理解者は自分。

2015年7月5日日曜日

本日の魔法の呪文 57


" 特筆すべきは、テセウスがミノス王の娘、
美しきアリアドネから糸玉をもらう、という幸運を手にすることです。
歴史的にみて太古の母権制文化の叡智、
「偉大なる母」の叡智は人間に、
まり父権制文化に移行していきます。
ラビリンスに入って歩いていくときに、
テセウスは糸を転がしていきます。
全てはテセウスが「赤い糸」を見失わないことにかかっているのです。

(略)

叡智を「つかみとること」、「概念の形成」こそ、ギリシャ文化期の主要な成果です。
テセウスはその行為によって、その文化を代表する一人となったのです。"

フォルメンを描くⅠ ルドルフ・クッツリ 著  石川恒夫  訳 P76 より抜粋


クラシックの音楽を演奏することと、
組紐模様を描くことはどこか似ているかもしれない。
既にもう、こういうルートを辿ればOKだ、
という曲線が形として先に示されている。


それを忠実に辿ることができたなら、
そこに命が宿り、偉大なる母の叡智とつながる。
けれど、形だけなぞっても、叡智にはつながれない。


つながっているかどうかわかる人がどんどん少なくなり、
形の仰々しさだけがもてはやされ、
暴走していったとき、その形すらも存在しえなくなり共に崩壊する。

糸は、時がたてば自然に朽ちて土に還る。
叡智みたいなものは、一代限りであって、それを代々引き継げるようなものじゃない。
なのに、その軌跡を朽ちない形で保存できるようになったことで、
全てがおかしくなってしまったのだと思う。

2015年7月4日土曜日

本日の魔法の呪文 56


"裁き手たちは、あなたがあなたでいる限り文句を言い続けるだろう。
物事がいつも通りに進まないからだ。
なぜ、おまえは普通の道を行かないのか?
みんなと一緒に定められた道を行けばよいではないか?
なぜ、おまえはみんなが真剣なときにほほ笑み、
みんなが気にもとめないことに真剣になるのか?

(略)

盟友に従っても、
グループの理解を得られるわけではなく、
長寿を授かるわけでもない。
知者への道は強制されたものであり、
その過程で名状し難い力に会い続けることになる。
心のある道は、人生に意味を感じさせるが、恐ろしさを伴う。
心のある道を行くことで、早死にすることさえある。"

シャーマンズボディ 第2部 都市の中で夢を見る 
アーノルド・ミンデル  青木聡訳  藤見幸雄監訳・解説 P264  より抜粋


おさるのジョージは知りたがり屋のお猿さんですが、
知りたがり屋もつきつめるとこういうことになります(笑)

ここにまで足を突っ込んでしまった人はしょうがないです。戻れません。。。


そのかわり、まあ毎日の生活がアマゾンのジャングルを旅することに
ほとんど匹敵しているかもしれない。 

ミンデルは、シャーマンが山を降りてきたらどうなるか、
というひとつの実践例を示してくれているように思います。
わたしの友人にもそんな人がいますが、
どこにかかわっても必ず嫌がられ煙たがられるのは間違いないので、
それを引き受けながら、楽しく生きるのみなのです。

ほんとうにそこらへんの人に埋もれた肩書で生きることが、
かえって一番自由だったりする。

そういうわけで、もう随分前から他人のことを肩書で判断していませんが、
わたし自身も、自分に対し、掲げている看板で裁くようなことはしないで生きようと思う。

2015年7月3日金曜日

本日の魔法の呪文 55


もう一度学校に通っているようなものだった。
今回は自分が教師でもあり、生徒でもあった。
学びというものが本当はどのように起こるのかがわかり始めていた。"

光の医学  ジェイコブ・リバーマン 飯村大助 訳 P189より抜粋

こないだからずっと、偶像崇拝、記号について考えているのだけれども、
それがいけない理由の根源は、
魂と、物質がきちんと連動せず、
連動してるつもりになって増殖していくことに加担するからだ、
ということが最近ほんとうによくわかる。

このことは、ありとあらゆる場面で、
ミトコンドリアのように同じ構造があり、
この連動をしていないものが偽物であり、
連動しているものが本物である、ということ。

そういう意味で、
いくらいろいろな宇宙の法則が体系化されたものがあっても、
それをかたちだけなぞったところで、理解できるわけがないのだ。

だから、もともと教えを説いた本人はちゃんと理解していたのに、
広められたメソッドが下手したら害悪にしかならない、ということが起こる。

体系化を自分でやるからこそ、
魂と物質の連動が生じて本物になるわけで、
他人が体系化したものを、
他人仕様になってる順で教わったってぴんとくるわけがない。
ぴんときたつもりになり、
死骸残骸な知識ばかりがやたらと増えるだけになるのだ。

どうやって体系化するのか、について、
それをそれなりに試行錯誤して生きている人のそばにいって感染させてもらうこと。
これが一番生きた学びになる。
その精度が高ければ高いほど、
「今学んでる」
ということすら頭によぎらないくらい
自然な動きになる。
だから、先生と生徒、みたいな仰々しい役割分担すら生じない。


自由な学びをする理由に、
どこか今の世の中で出し抜いてやれ、という欲があるなら、
それは必ず失敗するだろう。


自由に子どもを学ばせる、ということの最終目的に、
そうした方が学歴が結果的に高くなるだろう、
という欲をちらつかせないでいられる親が、
どのくらいいるだろう?


どうせ大人になったら、
記号に徹して真っ暗な人生を歩むものなのだから、
子どものときだけ、思い出としてのびのび自由な保育を、
みたいな話をよく耳にするけど、反吐が出るよ。


そういうことに、「自由な教育」が持ち出されるのなら、
そういうことに手をださないでいるより、
余計にひどい偶像崇拝そのものだと思う。


学びというものはそんなものじゃない。
自分のストーリーを放り投げず生きるってそんなことじゃない。

2015年7月2日木曜日

本日の魔法の呪文 54


"光は主要な栄養の一種であり、
体に直接影響を与えると同時に、
食物を通して間接的にも影響を与える。
たいていの食物は、固体の形をした光といってよい。
(略)
食物連鎖の度合いが低ければ低いほ
(すなわち、食物が直接光からつくられている度合いが高ければ高いほど)、
光の力が十分に得られる。"

ジェイコブ・リバーマン 飯村大助訳  光の医学   P174より抜粋

カラフルな食事を意識すると、
すごく体が満足するなぁと思います。
実際、いろいろな色が揃った食事は、栄養素もちゃんと揃っていて良いらしい。
たぶん酸化を防ぐ栄養素がたくさん含まれるのだろう。

そんなカラフルな食事が美味しいなと思えるときは、
自分を大事にしていて、まわりともあたたかく関われているときなのだと思う。

2015年7月1日水曜日

本日の魔法の呪文 53


"古代の大聖たちは、宇宙電波が三つの群をなして、
われわれに降り注がれているのを知っていた。

一つは、大きな無数の星から来る電波が、
われわれの太陽系に密接な関係があること、
且つわれわれは、それと特殊の関係におかれていること。

二は、黄道帯の十二星座から来る電波が、
太陽系と地球に及ぼす大影響である。

三は、太陽の周辺にある星から来る電波の影響である。

これ等の電波が、「力への意志」を促し、「愛への意志」を促し、「知らんとする意志」
を促していることも明瞭に認識されていた。"

星化学分析 M・ドウリル著 三浦 関造 訳  P8より抜粋


磁気というものは、ここに書かれているように「促す」力でしかない、と思います。
促されて重い腰をあげるのは、自分。

この本には、食と元素についての考察もいろいろ書かれており、
個人的に納得する部分しない部分いろいろあるのですが、
特定の食べ物を美味しいと感じるか、それを消化できるか、という問題と、
本人の体つきだけでなく気質や能力との密接な関係性というものは、
ほんとうに精巧に連動しているなぁと思います。

その密接な関係性=それぞれの人生のストーリー
というものをできるだけ思いだし、取り戻すだけで、
まるでリニアモーターカーが自然に浮力を得るように、人生がすっと動き出す。
そういうものじゃないのかなぁ。