2015年8月30日日曜日

本日の魔法の呪文 108


" ふたつの極に分かれた正反対のものを、
ふたつのまったく分離されたものと見ないでください。
そのふたつのものは、お互いにサポートしあいながら、
何かひとつのことをあなたに伝えようとしています。"

BASHAR GOLD P288より抜粋

一休の地獄太夫の話、サドの話、パラサイトの話、星の王子様の飼い馴らしの話、、、

これらの話はみんな共通の領域の話。

この領域内で生きることにセンチメンタルになっている場合じゃないのだーーーー

2015年8月29日土曜日

本日の魔法の呪文 107



"商品を売るための広告とともに発展した大量消費社会は、
やがて刺激喚起剤としてのシンボル自体を消費する段階に達するしかないのだ。
してシンボルが食いつくされたあとは消費社会の死滅が残るのみ。
だから、その流れを促進する機能を担わされた広告は、いってみれば黙示録の騎士、
あるいはトリックスターのごとき「予兆をもたらす者」の役割を演じざるを得ない。
ということはつまり、サブリミナル広告も含めたアド・クリエイターの仕事は、
アートでも娯楽でもなんでもなく、単に「死滅回游をすすめる企業活動」の一環なのである。"

99万年の叡智 荒俣宏  第三部 非理性のテクノロジー 広告の大いなる愛 P365より抜粋

荒俣宏のこの本は、他のテーマもかなりマニアックでとてもおもしろい。
一貫して描かれているからくりをひっくりかえして眺めてみると、
たとえば今回の引用部分の「予兆」にしても、
個人がビジョンをもてれば、予兆の役割は意味をなさなくなる。

外から無意味にもたらされるストーリーやシンボルに嫌気がさすところまで、
もう多くの人は到達しているのではないか。

最近ついったーで画像検索をするのがあまり楽しくないのだけど、
最近は、徹底的に自分の中から無駄な、偶像崇拝的なイメージを全部追い出している。
そうすることで、それでもまた生まれてくるエネルギー、自分由来のシンボリックな並行世界が
たちあらわれてくるのを、焦らず待ちたいと思ってる。

わけのわからん外からの偽物の刺激はもうほんとつまんない。

2015年8月28日金曜日

本日の魔法の呪文 106



"盛運の家でも、庭に築山・泉水などのある家は、
それ以後衰運に向うことはあっても、それ以上盛運になることはない。"

食は運命を左右する
水野南北著  玉井豊一郎 訳 P56より抜粋


物質領域と精神領域で、二本立てで陰陽がなりたっており、これらは反対になる、
ということに気づき始めたのは、
食と占星術の関連性を実例と共に観察しはじめてからだったのだけど、
このことは風水などとも非常に関連してくる。

今回の引用箇所で、
どうして庭にこういった一見ラッキーアイテムみたいなものを置いたらあかんのか、
ということは、それを物質領域で、本人のストーリーと関係なくぶったてることが、
かえってその人のエネルゲイア領域(精神領域)を阻害し、結果的に運命が傾く、
という陰陽の法則そのものだと思う。

これと同様、どうして肉を食べるとあかんのか、という話を
この方向で解析していったとき、
血という、まさに自分の心と肉体の相互作用、
ストーリーの結果生まれた結晶のようなものを、
他の動物がそうやって生み出したものを横取りしていただくからではないか。
その様子がまさに、庭にラッキーアイテムを唐突に持ち込む様子そのもの。

旧暦八月にうちの近くの神社でも放生会があるけれど、
そんな風にお祈りしたりしてすむレベルじゃないのだ。

日本人はもともと菜食文化が長い地域に生きてきており、
その結果、炭水化物メインの暮らし=脳が大きい民族だ。

にもかかわらず、世界で一番質の悪い肉の食べ方をしている。
(脂肪が多い箇所を喜んで食べるのを好み、野菜と合わせて食べたり、毒消しをしながら食べたりということがあまりない)

そういうわけで、世界で一番、ほとんど狂牛病のように、脳がおかしくなっているのは、
日本人じゃないのかと思う。

全員が狂えば、まともな人が狂人扱いされるのはあたりまえだ......

2015年8月27日木曜日

本日の魔法の呪文 105



"易の言葉に「方以類聚,物以群分,吉凶生矣」
(方は類をもってあつまり、物は群をもって分れ吉凶生ず)
というのがある。
もともと天地の陰陽には吉と凶などなく、
形と心をもつ人間によって、初めて吉凶が生れるというわけである。

P65

【問】「私は食を慎しむことはたやすいけれど、遊所行きを止める事は難しく悩んでいます」

【答】「それは大いに結構なことだ。何と言っても慎みの第一は食である。
遊所に行って散財し、放蕩と言っても、
食を慎んでいれば家が失くなったり、病気になることはなく、
長生きしておのずから富むのである。
食は本である。
その本を厳しく慎めば外のことは枝であり論ずるに足りない。
今後とも食を慎んで遊所に行きなさい。食を慎んでさえおればすべての凶悪は許される。

P77

食は運命を左右する
水野南北著  玉井豊一郎 訳

水野南北の、この玉井氏による訳は、100%賛同するわけではないけれど、
陰陽論としてみたときに理に適った説明がいくつかあるので抜粋してあげてみる。

1つめ、P65からの引用は、
結局、自分側が電極としてプラスかマイナスかどちらなのかによって、
外的要因が自分とあわさったときに、結果どう作用するかは変わるということだと思う。
万人にとっての同じ結果をもたらす外的要因というものはないのだよね。

2つめ、P77からの引用、
これ、わたしの見解としては、ほんまに菜食が美味しいと思えるならば、
遊所に通うことが楽しいと思えなくなるはずやねんけどな、、、
金で買える肉体の快楽(プラスエントロピー)が心地よいということは、酸化のエネルギー
(心と肉体が分離したエネルギー)が心地よいと思っているということ。

いくら菜食をしていたところで、ほんとは肉が食べたい人なんじゃないのか?
そういう気持ちなのに、かたちだけ肉を避けたところで、作用は形骸化してしまう。

まあ、確かに後半に書かれている、
食以外のことは枝であるというのはまさしくそうで、
ここがちゃんとしてる人は、
なーんも説明がいらん。勝手に悟っていく(笑)
健康に良い、とあたまでっかちに菜食をはじめた人ではなく、
まずくて、においが気持ち悪くて食べられなくなった系の人々はとくにそうだと思う。

2015年8月24日月曜日

本日の魔法の呪文 104



"過去にとらわれている人間がまぎれもなく過去を一切持ち合せていないことは、
奇妙な矛盾である。
そうした人間は原初的な苦痛によって、過去から切り離されているのである。
そこで彼は、自分の歴史を無意識のうちに毎日、行動にうつしつづけなければならない。
それがために彼は、生涯を通じて大きく変ることはない。
彼は四十歳になっても十二歳のときとさして変わらない。
彼は自分の闘争のなかを左右にぬって歩き、
神経症的な儀式をおこない、
一言ごとに自分の神経症のことを臭わせ、
小さなときの家庭の状況を再構成する新しい種をたえず見つけ出している。

正常な人間は歴史を、自己の連続性を、持ちそなえているし、
それは苦痛によって短絡していない。正常な人間は、自分のすべてを持ちそなえている。"

アーサー・ヤノフ 原初からの叫び P350より抜粋

わたしが小さな頃から、脳裏にいつもちらついていたのが、巻物のような年表のイメージであり、
そしてそれは20歳をすぎたあたりからぷっつりと闇の中に溶けてしまい、そこから先がない、というものだった。
そのあたりまでは精巧に予定が組まれており、実際そのとおりにばかみたいに歩んだ。
そして、そのとおりに、ぷっつりとその先がなくなった。

今思えば、パラサイトの巻物だったのかもしれない(笑)

その頃までの人生と、その後の人生に、わたしは連続性がない。

息子との暮らしの積み重ねは、100%わたしが納得してずっと積み重ねてきたものだ。
産むときから、全部自分で納得した上で生み、そのことで生じた不利益や大変さを全部引き受けてきた代わりに、その果実も全部得てきている。

積み重ねることの尊さやあたたかみというものを、わたしは20歳をすぎるまで知らなかった。
いつもいつも、すりかえることで様々なことが断絶され、すりかえることでほっとする、
その連続で生きてきたからだ。


息子との暮らしが長くなり、わたしが時々、彼との暮らしにおける連続性を軽視しすぎるときがあるのだけれども、息子は等身大に、その尊さをかたときも忘れていない。

その証拠は、わたしがだめな母親であろうと、優しい母親であろうと、怒りん坊であろうと、
彼はいつもわたしに信頼を寄せてくれている。

あたたかな積み重ねというものは、やったらやった分ちゃんと報われるよ。

2015年8月23日日曜日

本日の魔法の呪文 103

"個体でも社会現象でも、カタヨリがひどくなり、
分極が固定すれば、電気欠亡部位は、「癌的病状」を呈することになる。"

相似象学会誌 第四号  P230より抜粋

罰や規則というものがあることで、それをやらない、ということの愚かさ。
確かに、それをやらないということには違いないので、
カタヨリは生じていないかのように思える。
けど、精神状態としてとらえたときに、
その人はいったいどういう心持ちでそれをやらずにいるのだろう?

自分が納得しており、それをやりたいとも思わないからやらない、という状態と、
ほんとうはやりたいけど、罰せられたり、世間的に損をするからしぶしぶ我慢する、
という状態を、生命体としてホールネスでとらえたとき、
雲泥の差がある。

少し関係ない話だけど、
図書館で、刑務所の中を撮影した写真集を見た。
女性刑務所のページで唖然とした。

わたしが好きな、和の手仕事なんかを、
手に職をつけるべく教わっている光景が映っていた。

刑務所は桃源郷という言葉があるけれど、ほんとにそうかもしれない.....









2015年8月22日土曜日

本日の魔法の呪文 102


"最後に、メタファーのi位置を確かめておこう。メタファーは、三角形の頂点に立ち、現実世界と意味世界の橋渡しをする。意味世界は、私たちの内にあり、現実世界は、私たちの外にある。両世界を結ぶメタファーは、私たちの身体が媒介する。身体の表面に張りめぐらされた視・聴・嗅・味・触の五感は、世界に向けて広げられた敏感なアンテナ。五感のメタファーが、世界を理解する-外の情報を内の意味に転換する(理解可能なものに変える)-上で、とくに重要な働きをするのは、このためである。"

メタファー思考  瀬戸賢一 P206より抜粋

ヒエラルキーのいちばん上に据えられるものは、もしもそのヒエラルキーが宇宙の法則に合致しているならば、エネルゲイア領域でしか完全ではありえないものが据えられるはず。

つまり、現実世界に落とされた時に、個別具体的な何かが対象とされることはないはずなのだ。
もしそうなってしまっている、あるいは、意図的にそれが望まれてしまったなら、
ここで書かれているような「五感のアンテナ」が、一定方向に反応する人々だけが正しい、
と矯正する世の中になってしまっていることを意味するとわたしは思う。

そういう、不自然な固着化は、
最終的に、△全体の崩壊を意味すると思う。

水は答えを知っている、の江本さんの最近の本で、
宗教ごとに水の結晶を可視化し、写真にしたものが出ているけれども、
全ての結晶が「6」ベースの結晶として美しくかたちをなしている。

結晶というものも、比喩でしかないんだけどな。
クリストファー・ウィリアムズがいう最密充填(空間内に同じ大きさの物質を最も密に詰めようとするときに自然に生じる物理法則)では、六角形になる。
それは、単に円が劣化したものでしかない。

つまり、唯物論の世界で、世界を説明することはありえない。
なのに、人は説明を求めるのだ。
それに応えようとするサービス精神は、果たしてどう作用するのか、、、


CADで製図しているとき、円を描いていると、
作業が続くにつれて円がだんだんカクカクの多角形になってくるが、
いくら角を多くし、遠目に円に見えたところで、それは円ではない。
決して。
その大きな違いというものをばかにしてはいけない。


江本さんの本ではまた、神道と振動が関連するのでは、とも言及されていたが、
それは単に、拡声器じゃないのかとも言える。
宗教というものの本質は拡声器かもしれない。
その本質=ヒエラルキーの一番上に据えられているものがまちがっていれば、
まちがったまま拡声器で、ラウドボイスで拡散増殖される。

2015年8月21日金曜日

本日の魔法の呪文 101



"革命が起こるときというのは、本当にごく少数から始まるものです。多くの人は、革命は支持しても今までの慣れた状態を維持したいわけです。ですからある程度のところで、「もうやめようよ」もういいよ」と事なかれ主義にしたいのです。これと全く同じことです。あなたがよりよくなろうとするなら、あなたの中に革命が起こる必要があります。それが起こらないかぎり、よくなることはできないからです。"

コリン・グリフィス 宝石のレメディーとチャクラ P195-6 より抜粋

この話を思いだしたのは、
わたしがしつこくハラッサー関連のテーマを追っているということもそうなのだけど、
今日遊びに行った弘法市でもらったチラシに、
こんな言葉が書いてあったので、これも引用しておく。


お大師さまのおことば

水は器(うつわ)に随って(したがって)方円(ほうえん)なり(付法伝第一)

水は入れ物によって、四角にも丸にもなります。置かれた場所にしたがうのです。
川の水も、石とけんかせずにひょいひょいと流れていきます。石が行く手をはばんでも、水は少しも怒りません。水の法から負けていくのです。
しかし最後には、石の方が丸められていきます。水が「負けて勝った」のです。

平成二十七年八月一日 東寺 No.57

天気予報では雨がちらつきそうだったけど、でかける頃には雨も上がり、
五重の塔を近くでみたのは、たぶん小学生くらいの遠足以来。

中に入ることができるのは、お正月の三が日だけで、
残念ながら今日は入れず。
外からみただけでも、そのたたずまいのバランスの美しさに、自然に気持ちが安らぐ。

お土産に両界曼陀羅図のレプリカを買ってきたのだが、
これってまさに、キネシス領域(胎蔵界)とエネルゲイア領域(金剛界)、
なのかな、と思ってみつめている。

細かなところは、手元の図版がぼやけていてよくわからないのだけど、
お寺には復元されたかなり細密に描かれているものが展示されていて、
小さな丸がひとつひとつ仏の顔になっていたのに驚愕しました。

この曼陀羅でメタファーとして示されているような、全ての感情をみんな
自分のものにすることができるならば、
きっとそのときには、支配被支配の世界へ加担することはなくなっているのだと思う。

そのことが、この東寺のお便りに書かれている水が「負けて勝った」という話かもしれないね。

2015年8月20日木曜日

本日の魔法の呪文 100



"以前、どもっていた患者は、
自分の言語上の問題をつぎのように話してくれた。
「私のどもりは、現実を求める戦いでした。
『自分でない私』が、本当の私が顔をのぞかせるのを防ぐために話しつづけていたように思えます。私は言葉を話しはじめてからずっと、
いつも口にする言葉を注意深くえらばなくてはなりませんでした。
私は両親の考え方やことばづかいを口にするようになりました。
私は彼らが気にいることを話しました。
まるで、自分の口で親たちにしがみついていたようなものです。
現実の私が感じていることを口にしないかぎり、
私は両親に受け入れられたのです」

現実の自己に立ちかえり原初的苦痛を経験している間、
この患者は一度もどもらなかった。"

原初からの叫び アーサー・ヤノフ著 中山善之訳  どもることの深層構造 P143より抜粋

幼いころは、わけもわからず、とにかく地雷を踏まないように、
という一心で、いつも言葉を選ぶ癖がついていた。
大きくなると、それを反射的にやっていることすら意識の俎上にあがらなくなった。

そうする必要がない暮らしが長くなり、
そうやって言葉を選ぶことをしばらく忘れていたが、
今度は違う意味で、言葉を選ばねばならない日々が続く。

以前は、自分の身を守るためにそうしていたけれど、
今は、狭い意識の世界が全てだと思い込んでいる普通の人との接点をもとうとするとき、
彼らと重なり合う領域の言葉、というものを探すのがほんとうに難しい。

ばかにだけはされたくない、という構えで戦々恐々と生きている人とは、
心を開いて話をすることはできない。
開いた方が弱みを握られ、低い側に置かれる、というルール内に彼らは生きているから。

そういう人々に取り囲まれ続けていると、
わたしの方が人間としておかしいような気がしてくる。

2015年8月19日水曜日

本日の魔法の呪文 99


"ささいなことにたいへんな注意力を集中しなければならなくて神経がいらいらし、外で他の学生たちは笑い、歌い、踊っているのに、私は二、三章を読むのに何時間も使わなければならないかと思うと反抗したくなりますが、すぐに楽天的な性質をとりもどし、不満の気持ちを心から笑い飛ばしてしまいます。というのは、どの道真の知識を得ようと望むものは誰でも、一人で「困難の丘」を登らねばならず、頂上にいたる王道はないのですから、私は私なりにジグザグの道を進まねばなりません。
何度もすべり落ち、転び、立ち止まり、隠れている邪魔物に突きあたり、かんしゃくを起こし、また気が静まり、気をとりなおし、とぼとぼと歩きだし、少し雨へ進み、勇気を得、前より熱心に前より高く上り、ひろがってゆく水平線がみえるようになります。
あらゆる苦闘は一つひとつが勝利なのです。もう少し努力をすれば光り輝く雲にとどき、空の青い深み、私の望みの高天原に着くのです。"

ヘレン・ケラー自伝  川西進 訳 P131より抜粋

ヘレン・ケラーの内的世界観の豊かさは、
この自伝を読むだけでもひしひしと伝わってくる。

彼女がどうやって、自分なりに自分の世界を拡げ、充実させていったか、
という道のりは、アンスクーリングがたどるけもの道とそのまま重なるし、
自分の封鎖されていた感情を取り戻して日々を生きる、ということそのものかもしれない。

2015年8月18日火曜日

本日の魔法の呪文 98


"窓がかたかたと鳴っているのを指して、子どもが「窓が寒い寒いといっているよ」というメタファーを発したとしよう。猫を「ワンワン」というのはやがて消えるが、窓の例のような擬人的なメタファーは、その後もなお続く。なお続いて私たちの心に沈殿する。そして、私たちがいま「窓が震えている」というとき、私たちも、いくぶんか、まだそこにメタファーの意味をこめて使っているのではないだろうか。古代の人は、火山が噴火するのは、山が「怒っている」というように、擬人的メタファーを通して理解した。私たちは現在、このような心性から完全に自由になっているといえるだろうか。"

メタファー思考 瀬戸賢一 P152より抜粋


瀬戸さんの本をはじめて手にとったが、
とても読みやすくわかりやすいので、他のもじっくり読んでみたいと思う。

わたしがメタファーやシンボルについて深く首をつっこむきっかけになったのは、
占星術の延長みたいなところからだけれども、
メタファーやシンボルの読み違え、というものを起こしやすい人と、
起こしにくい人という差は歴然とあって、それはいったいどこにあるんだろう?
ということをずっと考えている。

友人の師匠がずっと言っていた「気根」がない人はどうしようもない、
という言葉があるのだけれど、
まさに、読み違えをする人はこの「気根」がないタイプなのだと思う。

唯物論は、この「気根」がない人とある人、「カン」が良い人悪い人を平等に扱う世界だ。
理由は、この2つはエネルゲイア領域で顕著にあらわれるものであり、
この領域をないことにしてしまえば差がつかなくなるからだ。

そのことを利用して、散々にひどいことをやりつくした人々は、
あとでそれだけの辻褄を合わせる事になる。

逆に、この領域があることに気づき、それを忘れてしまう事ができず生きる人々は、
今の世に生きる事は痛みと苦しみの連続だろう。
でも、それと同時に、生きていることの楽しさ、素晴らしさ、愛というものを、
ちゃんと感じられるというご褒美がついてくるのだ。

今日も息子が唐突に「ママ、僕は生きてて楽しいねん♪」と話しかけてきたが、
生の感情を全て、360度自由に表面化して生きる世界の楽しさを、
わたしは息子からいつも教わっている。






2015年8月17日月曜日

本日の魔法の呪文 97


"一般にアラブの貧困国では、獣肉は大変な贅沢品である。
普段彼らが食べているものといえば、
豆の煮込みとトルシー(野菜の漬物)とパンくらいのものである。
ネパールではダル(豆カレー)とタルカリ(野菜の煮物)とコメである。
興味深いことに、それらは日本の「味噌汁、漬物、白飯」の組み合わせと見事に一致する。"

ハビビな人々 中山茂大 P144より抜粋

いつも思うけど、ベジやってると、多くの人々がご馳走、と思うものがご馳走に思えず、
貧しい粗末な食事、と言われているものが美味しくてたまらない。

この本には、バングラディッシュの話もちらっと触れてあり、
バングラディッシュの青年にとっつかまると、
祖国賛美をえんえん聴かされてうんざりする(国土として何も自慢できるものはないくせに)、
といったエピソードが書いてあるのだが、
わたしも昔の職場でバングラディッシュ人と働いたことがあり、
彼のきらきらした瞳と、自分の家族と国が大好きでたまらない、
といった素朴で熱い心にとてもびっくりした覚えがある。

今の日本に欠けているのはこの感覚やなぁとほんと思う。

どうして彼が、てらいもなく家族や祖国が大好き、と口にできるのか。
わたしたちはどうして、それができずに一瞬ひるみ、曖昧なほほえみを浮かべてしまうのか。

あらためて、ほんとに次の世界へ行きたいならば、
立場を変えることで(下克上(笑))は何も解決しない。

今いる立場で、それぞれがいる立場で、この状態に対する認識を変えていく、
それしかないんだろうな、とあらためて思う。

立場を取り替え、すりかえることをしないことは怠慢だ、努力が足りない、
という文脈で、散々責められてきた人はとても多いように思う。
あるいは、立場を守り、あけわたすな、
ということだけを徹底するように言われてきた人も同様だ。

問題の核心は立場をどう扱うか、にはなくて。

朝三暮四のように、立場を切り換えたところで、あるいは立場を守るために
小手先の変化でめくらましをしたところで、、

支配被支配の世界では、どこにも愛はないのだ。

2015年8月16日日曜日

本日の魔法の呪文 96



"LSDが精神を拡大する薬物(サイケデリック)と呼ばれている理由の一つは、
象徴的な飛翔にある。
感情に対する刺激はおうおうにして、
象徴的な観念の爆発をもたらすが、
それがしばしば、精神の拡大と誤解されているのである。
この拡大は防衛の一つであることを、私たちは理解する必要がある。
考えがひどく飛躍する躁病の人間は、
感情から遠ざかる競争における精神拡大の典型的な例である。"

原初からの叫び アーサー・ヤノフ著 中山善之訳  薬物と常用者 P308より抜粋


アリス・ミラーが、尊大な華々しさ、という言葉で、
自分とつながれていないまま大人になった人々の、一見光り輝き成功をおさめているかのような人々の心の内実は、実はものすごく悲愴なものである、といった感じのことを指摘していたけれど、
この話と、アーサー・ヤノフのこの書も大筋で同じことを指摘している。

つまり、自分から切り離されるきっかけになった体験だけは思いだしたくない、
その一心だけで生きている人々がたくさん存在しており、
その人々にとって、ファンタジーから酒から、薬物から、音楽から、仕事での成功から、
何から何まであらゆることが、そこからの「逃避」にしか使われない、ということ。

LSDは精神が拡張され、新しい世界観を手にしたような気になるらしいのだが、
そのことが、
その人の人生にいったい何の意味をもたらすのか=ファンタジーを現実にひきおろす
という文脈でこの体験をとらえたとき、
彼らは、薬が切れれば地に叩き落とされるだけで、
まったくもって、そのきらびやかなうっとりする体験が、人生に生きない。

ヤノフによると、
ただ平面的にシンボリックなイメージが増殖していくことにうっとりしてしまうだけのこと。
そのことと、人間が真に愛や美に満たされるということとはまったく関係がないのだ。
シンボルは増殖すればいいというものではなく、
有機的に、あちらの世界から、現実の世界にタグづけされなければ
何の意味もないのだ。

わたしは薬はやらないし酒も飲まないが、
音楽をやっていたときに、
そういう「酔っぱらう」という方向でやっていた部分も半分くらいあったな、
と振り返って思う。
だから、薬中の人々のからくりがよくわかるのだ。


でも彼らと違うところは、
あと半分は、ほんとうに真摯に、
あちらの世界と向き合うツールとして使っていたということ。


浦島太郎が籠目紋の籠に入れられて蓬莱山に連れて行かれたように
(魔女の宅急便で、キキが雨に遭遇して電車で移動したように)
あちらの世界にわたるために道具を借りて楽をした人々と、
自分で楽器を演奏し、自分で橋をかける行為には、かなり大きな違いがあるように思う。

自分でやった場合、かならずどこかは醒めていて、
冷静にことの成り行きを把握し、誘導する力、コントロール力は放棄していない。

この境地がわかるということはとても大事だと思う。
(ミンデルがいうハーフトランスだ。)

ホドロフスキーの映画はカルトとしてみなされ、確かに風味としては
サイケな世界観をゴージャスに描いているが、
ただ単にサイケ&ドラッグクイーン的な文脈で称賛される映画とは一線を画す。
(ロッキーホラーショーとか、ダージリン急行とか、、)

ホドの映画は、その華々しくゴージャスでうっとりする画面に圧倒されるだけで、
それを楽しむだけですませることもできる。

彼がつたえたかったポイントを伝えやすくするために、豪華な演出がなされている、
ということかもしれないけれど、
わたしは、そういう豪華さがあればあるほど、
ネオンサインで星の光がかすんでしまうように、
余計に気づいてもらえないこともあるんじゃないか、
とついつい思ってしまう。

だから、あまりおおげさにパフォーマンスをするのは好きではないのだ。

動きまわると誤解される。でも動かないと伝わらない。
このもどかしさよ.....


2015年8月15日土曜日

本日の魔法の呪文 95



"また、大自然は、人間に恵みをもたらすとともに、
災害や疫病などの災難をもたらす。
このため、人智のおよばぬ大きな力を神と見なし、
その神には両面性があると信じた。
すなわち、これが「神」と「鬼」との二面性であり、
ひとりの神の中に「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」というふたつの顔があると信じられたのである。

(略)

そして、ここが大切なことなのだが、「神」と「鬼」の二面性は、一神教的な「善」と「悪」の峻別とは本質的に異なっている、ということである。
一神教における「善=神」が、「悪=悪魔」とは対極の存在であるのに対し、多神教における神と鬼は、ひとつの現象の表と裏であり、日本人にとっての神は、祟りをもたらす恐ろしい存在であるとともに、恵みをもたらすありがたい存在でもあったのだ。"

呪う天皇の暗号  関裕二 P43-44より抜粋


善と悪が、そのまま神と悪魔(悪魔=鬼と短絡的に扱われやすい)
とはならない、ということを理解するのは、簡単なようでなかなか難しい。

食でたとえるならば、
身体を冷やす作用が強いフルーツは、陰陽でいうならば陰性が強い。
このことを短絡的に善とも悪とも言えない。

たとえば、
同じ食べ物をもし配給のように均一に与えたとき、
寒い地域の人はフルーツを食べて体調を崩し、
暑い地域の人はフルーツを食べて体調が良くなる、という結果が起こる。

一神教、形式的平等を貫いてしまうと
「同じフルーツをみんなに300gずつ配給しました。平等でしょ?」
ということがおこりかねない。
一方にとって、それが生きない方向に作用することを無視している。

地域という例えで書いたが、
もっといえば、これは本来、個々の個体差が非常に強いはずなのだ。
あれといえばこれ、というように、記号に反応することで一日が過ぎていくだけの人々は、
心の仕組みも、からだの成り立ちも、入れ替わっても大差ない状態で生きている。
そういう人々にとって、配給で同じフルーツ300g、とされても何も困らない。

けれど、フルーツが苦手な人もいるのだ。
下手したら、食べたらアレルギーでショック死するかもしれない。

その人の存在は一見、和を乱し迷惑なようだけれども、
そういう人が場に存在することで、非常事態に機転をきかせて対応する知恵が保たれ、
結果的に場が救われることが往々にしてあるのだ。

場が均質的になることで、非常事態に誰も機転をきかせる人がいなくなる。

そのことのおそろしさをあまりわかっていない人々は、
短絡的に「鬼といえば悪だよね」と言い続けているように思う。

昨晩ホドロフスキーのサンタ・サングレを観たが、
あの凄惨なスプラッタホラー風味の映画で描かれている狂気とまったく同じ構造のものを、
わたしは日本で暮らす日常でいつも感じている。

ああいう形で極端にあらわれている殺人鬼だけが頭がおかしくて、
ああいう人だけつまみだせばすむのに、という話は違うのだ。

自分の中に鬼も神も存在し、どちらも暴走しないように、自分で扱っていくつもりがなければ、
殺人鬼や戦争に加担している張本人だとわたしは思っている。
涼しい顔をしている人々が一番悪だ、というのはそういう意味。

自分は鬼でも神でもない小市民だから許してね♪
と逃げ続けることがいちばんずるいとわたしは思う。

自然が持つ両極端の大きなエネルギーをなめてはいけない。
いくら、都会化し、文明の恩恵に包まれて生きているつもりでいても、
太古からなにもかわらず、自然の持つ容赦ない鬼と神の両面のエネルギーはいまも
渦巻いており、なめてかかれば相応に、自然から裁かれる。

裁いてはいけないというのは、人間が人間同士でやるもんじゃない、という意味だ。
自分のことを裁くのも、他人を裁くのも不要。

鬼からも神からも好かれる自分で生きていきたいと思う。
けものみちだけどね。

2015年8月11日火曜日

本日の魔法の呪文 94



"「魔女の宅急便」の世界においては、すべての好意がそのまま受け入れられることが理想とされている。しかし、それは現実には不可能だ。それでも、映画のなかで理想が実現されているようにみえるのは、おばあさんの例(※ にしんのパイのエピソード)が示すように、真実が巧妙に隠され、登場人物が現実と直面しないでもすむように仕組まれているからである。"

映画は父を殺すためにある 嶋田裕巳 P99より抜粋

わたしは、アニメはあまり好きではないけれど、
ジブリの作品は全部ではないがわりとみている。
が、ジブリの作品をみていて常に感じる立ち位置は、
ハラスメントの被害者側、というものだなぁとあらためて思う。

ジブリのスタジオの立地が、ありえないくらい電磁波環境が劣悪(発電所だか変電所の真横)であるということからもいろいろ思うけど、
ジブリの、あまりにもできすぎて美しい高度な芸術の世界観は、
かえって、現実と直面し、現実を変え、
ほんとうに幸せに生きることからどんどん遠ざかるためのツールとして
とても役立ってしまったのではないだろうか。

偶像崇拝のつもりではなく、その奥にある真実を伝えるために技を磨いたのに、
その技に魅了された多くの人々は、そこで思考停止し、
巧妙に隠された(というか、本人がみたくなかった)現実はそのままという、、、


今のわたしが立ち向かわなければならないテーマは、
どうしても分かり合うことができない、分かり合うキャパがない存在に、
無駄に執着しないということかもしれない。

どんどん低いところに降りていき、手取り足取り丁寧に指南すればするほど、
相手はぼんやりと曲解するだけなのだ。

そうしたい、と思ってしまう理由は、
自分の中に、そうしないと自分の存在価値が見いだせない、という
おかしな思い込みがあるからかもしれない。


そんな奴らを説得しなくても、
ただ楽しく生きればいい。毎日の、めまぐるしく切り替わる様々な感情を、
抱くときに罪悪感を感じる必要なく、淡々と全てを味わえばいい。


「それをひととおり味わって生きてごらんよ」と
言ってくれているところまで、やっとたどりついたのかも。









2015年8月10日月曜日

本日の魔法の呪文 93



"おとなは自分の子どもの魂を、
まるで自分の持ち物のように扱い、
そのやり方は全体主義国家が自国民を扱うやり方と変わるところがありません。
けれども、たとえいかなる全体主義国家であろうと、
おとなは、赤ん坊の権利を無視する親の手にかかった赤ん坊のように、
何もかも好き勝手にされてしまうということはありません。
私たちが幼い子どもの苦しみに対して敏感になろうとしない限り、
このような、おとなの子どもに対する専横は、
誰にも気づかれず、誰もまともに問題にせず、いつも無視されつづけることでしょう。
「たかが子ども」の問題なのですから。"

才能ある子のドラマ アリス・ミラー著 山下公子 訳 P123より抜粋


ほんとうに憎むべき存在、
許してはならない存在
(というか、行為)
を見据えることができない限り、
自分もまた、理不尽な加害的行為を無意識にやってしまう側になる。

この、自分の中に深く刻まれている、過去だけれども幻影として今もとてもリアルである
「やるかやられるか」の感覚。

この感覚から逃げようとしてしまうと、
一気に無気力になったり、人生がどうでもよく感じられたりする。

楽しく生きよう、という生の感覚を思いだすときに必ず、
この痛みを伴う、決して思いだしたくない感覚が連動してくることから、
たぶん一生逃げることはできない。

だからこそ、その感覚から逃げちゃいけないのかもしれないね。

それが、キリスト教における十字架のようなものかもしれない。

2015年8月9日日曜日

本日の魔法の呪文 92


"もう一つの道成寺解釈。
「熊野は日本の南端の死の国の一つであった。
そしてその国へさしかかる人々の<道行>は、
ただごとではない行法の一つであった。
日高川を越えた清姫が、
そこでもう一つの次元の世界に入ったことを示すために、
蛇体という姿をとらなければならなかったのであろう。
道成寺は、橘道成建立の寺と伝えられる縁起をもっているが、
その寺の名のニュアンスには、
道がここから成る熊野路の、
この世とあの世の境でもあるという印象を思わせずにはおかない」
(群司正勝 『かぶきの美学』)"

海人と天皇(上) 梅原猛 P466より抜粋


道成寺の安珍と清姫の伝説、これもまた空海が絡んでいるのではないか、
というにおいがぷんぷんする。

錬金術には2つの側面があって、
実際に貴金属を生成する要素(キネシス領域での果実)と、
精神面での豊かさを得る要素(エネルゲイア領域での果実)と、
両方あるのではないかなと思っています。

道成寺の伝説は、実際に熊野のこのエリアが鍛冶場であることもあり、
金属生成と深く絡んでいますが、
もうひとつ、ゲーテのメルヒェン的な視点でこの話をとらえたとき、
こういった異類婚姻譚的なストーリーは、
右脳と左脳に橋をかける行為のメタファーであり、精神的な危機としては、
死を覚悟した冒険に匹敵するのかなと。
そして、安珍はこれに失敗した例なのかなと思いました。

梅原さんは第十章 道成寺の考古学的調査、の箇所で、
なぜこの異類婚姻譚が成就しなかったのか?という疑問をなげかけてらっしゃるが、

わたしの勝手なひらめきにより、エネルゲイア領域の果実を失ったこととひきかえに、
キネシス領域での果実を得たのではないか、そういうメタファーを含むおはなしなのではないか、
と思います。

実際今の世の中が、何をひきかえに物質的な豊かさを得たのかということと、
そっくりそのまま構造が同じだから。

空海は、そんなこともわかった上で、
「でもみなさんは、それでも、キネシス領域の果実の方がお好きなのでしょう」
ということで、いろいろなかたち重視な業績を残したのではないかしらん。

2015年8月8日土曜日

本日の魔法の呪文 91


"CMが効果を発揮するとき、脳の「被殻」という部位の一部が活動していることがわかった。
くわしくいえば、CMは2種類の「条件づけ」が組み合わさることで、
効果を発揮するという。
条件づけとは、無関係な二つ以上の物事を関連づけて行動する(反応する)ことだ。

被覆は、ヒトの欲求と快楽を制御するのに関わる部位だ。
「CMは、私たちの"原始的な欲求"に直接作用しているようです。
理性でもって、その影響を排除しようとするのはむずかしいといえるでしょう」"

別冊ニュートンムック  脳力のしくみ 
意思決定に働く潜在的な脳の活動はどこでおきる? P92-93より抜粋


研究費がおりて大々的に研究がなされるテーマというものは、
基本的に経済に有意義なものに限られるといっても過言ではないと思う。

この「無関係な二つ以上の物事を関連づけて行動する(反応する)」
というのはまさに、キネシスとエネルゲイアのストーリーによる連携をぶったぎり、
キネシスの間でロンダリングを行って増殖させる、という行為の一端やなぁと思います。

自分にとって関連性が無い(自分のストーリーと関係がない)かどうか、
を考えないで、ただただ鵜呑みにして流されていくことは、確かに楽な生き方。

でも、それだと確実にカンが鈍る。
自分にとってどうなのか、という、自分の人生における意味合い、というものが、
全ての場面においてわけがわからなくなってしまう。

2015年8月7日金曜日

本日の魔法の呪文 90



"高度の文化には、「アンバランス」は無い。
カタカムナでは、必要なものは、必要なだけ発達して居た。
アンバランスに発達するのは、人間の「欲望」がしからしめるのである。
そして欲望のままに妄動するのは、要するに、「カン」が鈍くなったからである。
一時的に繁栄し、トクをしたように見えても、やがて破綻がくる、
といふ事を、「カン」がわるければ見通せずに、欲望にふりまはされるわけである。
こうした事は、少々「カン」の良い人なら、
誰しも気づく事であるが、さて、それを、ハッキリと指摘し、
その解決の方法と、根拠を、示すことは出来なかった。"

相似象学会誌 相似象 第四号 五 余論 P259より抜粋

最近お野菜が高いなあと思うのですが、それでも運良く色とりどりの野菜が手に入り、
みょうが、きゅうり、芋の天ぷら、卵、ネギ、ゴマ、トマトをのっけて、
夕飯はカラフルな素麺をいただきました。

そういえば、宇野千代さんも、そうめんやカレーをつくるときに
色とりどりの野菜のおかずを用意して食べる、というエッセイがあったなぁ。

カンが悪い人に対して、「これはこうだから従え」と理詰めでかかわってもほんとうに無駄。
似たような別バージョンのシチュエーションが起こったとき、
彼らは全く何も学ばず、同じ過ちを繰り返すだけ。

彼らが自分ひとりで、そういうシチュエーションに直面したときに、
誰かに命令されたからではなく、自分のうちから「これしかない」と心から思える力、
カンの力を養う、ということは、いったいどうしたらいいかな、、
カンに関して、魚を与えず釣り方を教える、というのはほんとうに難しい。

そんなことをいつも思う。

とりあえず、わたしが扱える責任の範囲として、
息子だけは、カンが良いまま育ってほしいと思っている。

2015年8月6日木曜日

本日の魔法の呪文 89


"たとえば、誰かがあなたをだましたとしよう。
そして過去生では、その人があなたをだまし、
あなたはそのカーマと、
この経験を通して学ぶべき教訓を認識しているとしよう。
あなたは共有のカーマを解決したいが、
相手がバランスをとる準備をしていない。
あなたはその人間関係に固執したり、
それについて気分をわるくしたりする必要はない。
あなたは、バランスをとりたい自分の理由を明確にし、
自分の感情を解決し、
うそをつかれた時の反応を理解することによって、
カーマの自分の部分だけのバランスをとることができる。
これは、内レベルでその人とその経験に対する感情を変える。"

グロリア・チャドウィック著 平山千加子訳 前世発見法 P100より

今回の引用部、カーマについての説明は、
全世界的に共依存がこれだけいきわたった中で生き抜こうとするときに、
必須の考え方だなぁと思います。
相手の世界を変えることはできないし、する必要もない。

受け止め方次第、といったことを、
いろんな先達がいろんな言葉で説明してくれているけれど、
大きく変わろうとするときほど、ものすごく微細なレベルでしっかりと、
自分のスタンス、自分の視点というものを意識しないといけないなと思う。

実際ほんと、地味なことの連続。


2015年8月5日水曜日

本日の魔法の呪文 88





"アイヌの信ずるあの世は、この世とあまり変わりはなく、ただこの世とすべてがあべこべであるという違いがあるだけである。この世の右が左、左が右、昼は夜、夜は昼、夏は冬、冬が夏という違いがあるだけである。死ねば、人は祖先の待っているそういうあの世へいき、しばらくあの世に滞在して、また同族の子孫となってこの世へかえってくる。とすれば、すべての人は祖先の誰かの生まれ変わりで、人はすべてこの世とあの世を往き来する。"

古代幻視  梅原猛著作集 P26より抜粋


エネルゲイア領域とキネシス領域があべこべになっている、
ということをはっきり意識しはじめたのは数年前だったかな。
陰陽論は二元的になっており、
精神面(エネルゲイア領域)の陰陽と、肉体面(キネシス領域)の陰陽は反対になります。

これと、首のところで神経が交差して、右左があべこべになる、ということと、
全部つながりますね。

アイヌやインディアンの人達は、
エネルゲイア領域とキネシス領域がどう結びついているか、にとてもシビアな言葉を用いる。

彼らにH2Oという概念はなく、
「ブーツの中にたまってる水」「氷が溶けた水」
というように、別々の扱いになる。

イヌイットの場合でいうなら「松の木に積もった雪」の名前と、「熊の背中に積もった雪」
も別扱いになる(幻想神空海、の中で解説されていました。またこの本再読しなくっちゃ。)

この感じがまさに、
同じメタファーがあっても、落とす先によって黒魔術にも白魔術にもなる、
ということにシビアである様子に重なる。


そういう感じで、もうすぐ木星がデトリメントになる乙女座に入っていくけれども
(わたしにとってジュピターリターン)、

霊主肉従で生きていくならば、わたしはむしろデトリメントな配置を持つことがありがたいのではないか、と気づいた。

一般的な意味合いでの「幸福」というものは、物質的、唯物論的豊かさ。
とくに木星は増殖に絡む。
エネルゲイア領域を増殖させたいのなら、
これからの乙女座木星期はうってつけなのかもしれない、とちょっと思うのでした。

2015年8月4日火曜日

本日の魔法の呪文 87


"周期表の本質は、科学が到達した曼陀羅である。これが、私が最後に贈りたい言葉です。
(略)
僧侶から、曼陀羅とは調和のとれた宇宙の有り様が描かれているという説明を受けました。曼陀羅では、仏の配置が横方向と縦方向の両面できれいに均整がとれています。その世界観が、周期表と見事なまでに共通していることに驚きました。ひょっとしたら、宇宙の真理を突き詰めていくと、最終的にはこうした姿になるのが必然なのかもしれません。"

元素周期表で世界はすべて読み解ける  吉田たかよし P208より抜粋


偶像崇拝はほんまにあかんねんな、ということをここ最近しみじみ思う。

遺伝の問題、性格の問題など、ロシアンルーレットかのように、運がわるければそうなるものだ、
と言われている領域の問題は、
単なる運ではなく、いままでのエネルゲイア領域とキネシス領域の齟齬がどれくらいたまったか、
ということのツケが綺麗にしっかりあらわれるだけのこと。

物質が化学変化を起こすとき、起こる前と起こった後で、綺麗に辻褄があうけれど、
まさにあんな感じで、キネシス領域とエネルゲイア領域の総和で世界を観るならば、
前も後もほんとうに辻褄があっている。

偶像崇拝は、この総和に関して、キネシス領域だけで辻褄を合わせてしまう行為。
そうしてるつもりがなくても、いつのまにかそうなっていることがある。





2015年8月3日月曜日

本日の魔法の呪文 86


" リンダの物語『ある奴隷少女に起こった出来事』は、
米国の白人、黒人双方にとって、複雑な感情を抱かせる。
白人が悪人、黒人が善人という二項対立での記述はなされていない。
善き白人で、黒人に対して同情的であっても、
経済的に困窮すると黒人奴隷を平気で売り渡す。
奴隷から解放された自由黒人でも、白人に過剰同化し、逃亡奴隷狩りの尖兵となる。
構造化された差別は、白人、黒人の双方を疎外し不幸にする。
本書を読むことによって、米国人は良心を刺激される。
そして、あのような米国と訣別し、新しい国をつくらなくてはならないと決意するのだ。
ここに米国の強さがある。"

ある奴隷少女に起こった出来事 ハリエット・アン・ジェイコブズ 堀越ゆき 訳
佐藤 優による解説 P309より抜粋


この話は、フィクションではなくノンフィクションである。
平易でわかりやすい訳が素晴らしく、
訳者さんが自分や、日本の多くの女性がおかれている立場から考えて、
他人事と思えず、訳さずにはいられなかった、と後書きで書いてらっしゃったが、
竹取物語のアメリカ版、的な実話だと思って読んだ。

主人公であるリンダが一貫して大事にしていることと、
かぐや姫が大事にしていることは同じ。

そして、この両者が大事にしていることを、日常を生きるわたしたちが実践することは、
極端な境遇に置かれたかぐや姫やリンダと違い、
一見平穏な世界に生きているように思える(思いたい)わたしたちにとっても
困難さは変わらないか、あるいはそれ以上に強いものだとわたしは感じている。

世の中のいじめや意地悪や凄惨な事件というものは、
この大事なポイントをぶんなげた人々が、ぶんなげていない人々が憎らしくてたまらなくて、
嫉妬にかられて暴れ回っているだけ、とも言えるとわたしは思っている。

そこだけは思いださないように生きているのに、
ぶんなげていない人を見るとどうしても思いだしてしまうのだ。


白人や黒人の二項対立が愚かだと、神学者であり、
自らも収監された体験を持つ佐藤さんが指摘しているけれども、
どんなものでさえ偶像崇拝になりうるように、
誰もが加害者・被害者双方になりうる、パワーゲームの中に生きていることに、
もっとシビアにならないと、といつも思う。

ミゲルの四つの約束に、プラスもうひとつ加えられた約束の内容がまさに、
疑うということの大切さだった。

疑うのは外部に対してではなく、自分が、今、どういう気持ちに根ざして、世界とかかわっているのか。それによって、同じ行為は簡単に黒魔術にも白魔術にもなる。
その鍵を握るのは自分。

どうしようもない状況に生きながらも、その中でやれることというものは常にあって、
そのことを放り投げてしまったらほんとうに終わり。

2015年8月2日日曜日

本日の魔法の呪文 85



" 日本人には意外に感じられますが、
西洋絵画で純粋に「風景」が主題となるのは、かなり時代が下ってからのことです。
中世の半ばすぎまで、
人々にとって圧倒的にリアリティがあったのは、
神や天使や悪魔の存在でした。
しかも当時の教会は、自然を、やがては消滅する物質と見做し、
永遠不滅の神に対置させます。
そのため人々は、風景を愛でることと肉の快楽に耽ることを似た行為のように思い、
罪悪感すら持たされていました。"

「怖い絵」で人間を読む 中野京子 P138より


中野さんのこの本、
美術館に行く前に読むと、
とても絵を楽しむきっかけになっていいのではないかなぁと思う。
わたしは美術に関しては徹底的に門外漢なのだけど、
それでも、こういうのが好き、というのだけは勝手に自分の中にあって、
美術館にでかけるのは昔から大好きです。

わけもわからず、ただ絵から受ける印象に強烈に恐怖と魅惑を感じたり、
あるいは、とても共感するものを感じたり(描かれている風景に、全く馴染みがなくても!)
そういうことの理由みたいなものを、ひょんなことから捜し当てることができたとき、
ああ、人間って深いなぁといつも思う。

今回の引用箇所、自然すらも偶像崇拝、
いや、自然を愛でることこそが偶像崇拝、
というこの考え方、
今の世界が徹底的にあべこべになっている理由としてとてもしっくりきました。

日本人は、もともと肉食文化=死と生のコントラストに脅されて生きる
ことからいちばん縁遠い生き方の民族だったと思います。

だから、自然の無限の大きなエネルギーを前にしても、恐怖にかられる必要がなかった。

なのに、ここ数十年足らずの間に、肉食があたりまえになり、
いまや世界中のどこの国よりも乱雑なやり方で、無節操に、多種多様なタンパク質を摂取している。
もともと菜食に適した体質であるが故、そういう食生活をしたことで受ける害というものは、
西洋のたたきあげの人々よりもめちゃくちゃひどいのではないか、とわたしは感じている。

つまり、エネルゲイア領域を抹殺する度合いが、
もともとそういう感性を強く持っていたが故に一番ひどい。

その、内的世界の荒廃が、世界で一番ひどいのは今日本だと思っているけど、
それはそれだけ、大きくひっくりかえるチャンスがきているということだと
わたしは受け止めようと思っている。

実際、わたし自身がそうやって生きてきているから。

同じ景色を違う感性で眺めたいと思うなら、
いくらでもそのチャンスは転がっている。あとは、そこに手をかけるかかけないか、やね。

2015年8月1日土曜日

本日の魔法の呪文 84



"フェルメールの絵が現実を感じさせない静けさを湛えれば湛えるほど、そこにはフェルメールが求めつつも実際には手にしえなかったものが描かれているように思われてならない。静謐なるフェルメールの絵画世界は、静謐ならざる彼の実人生からこそ生み出されたものだったのかもしれない。"

フェルメール 静けさの謎を解く  藤田 令伊  P211

ほんとうの意味での生み出す力、生み出されたものは、
エネルゲイア領域とキネシス領域がぴったりくっついた状態のものであって、
その残骸(かたちとしてあらわれた、焼き物だとか絵だとか、文章だとか、、)
だけでバランスが取れているということは、かえって、そのときの生み出した当人は、
全然美しいバランスではなかったのではないか、ということをいろいろ思う。


第一世界を目指していく過程で、
その手段としていろいろなかたちを伴った何かが生み出されるとしても、
本人にしてみれば、もうその残骸はどうでもいいものになってしまう。

その残骸のバランス加減を見て「あの頃はいい出来だった、もう一度あの感じで頼む」
ということを求められたり、あるいは、残骸だけをみつめて「うわー、素敵な人ですね」
と偶像崇拝状態で取り違えられることも虚しいのだ。

そんなことを思う人は少ないのだろうな。
取り違えであってもなんでもいいから注目や称賛を集め、富や名声をかき集めることが、
有限の世界でのマネーゲームごっこのメインイベントなのだから。


ここ数日ほんとうに頭がまわらない勢いで暑い。
こんなときは、生きているだけで、生き残っているだけで偉いとほんと思う。

キネシス領域ではなくて、エネルゲイア領域が主として据えられた世界に生きるということは、
こんな風に暑くてだるくてたまらないときに、
いろいろな雑事に手がまわる元気がなくて部屋がちらかったり、
予定がはかどらなかったりしたときに、
「もっとちゃんとやっておけば」と自分を責め、
だるい身体に鞭打って物資界を整える方向にがんばるのではなく、
そういう状態(つまり、あまり快適じゃなかったり不便だったりする状態)をそのまま、
淡々と楽しんでやりくりする、ということじゃないのかなと思う。

見た目は美しくないから、他人様に自慢できるものでもなんでもないけれど、
自分で責任が取れる状態で生きているなら、こういう意味で淡々と無理なく生きることができる。

そういう自由をわたしは今得ていて、とても満ち足りている。