2015年8月1日土曜日

本日の魔法の呪文 84



"フェルメールの絵が現実を感じさせない静けさを湛えれば湛えるほど、そこにはフェルメールが求めつつも実際には手にしえなかったものが描かれているように思われてならない。静謐なるフェルメールの絵画世界は、静謐ならざる彼の実人生からこそ生み出されたものだったのかもしれない。"

フェルメール 静けさの謎を解く  藤田 令伊  P211

ほんとうの意味での生み出す力、生み出されたものは、
エネルゲイア領域とキネシス領域がぴったりくっついた状態のものであって、
その残骸(かたちとしてあらわれた、焼き物だとか絵だとか、文章だとか、、)
だけでバランスが取れているということは、かえって、そのときの生み出した当人は、
全然美しいバランスではなかったのではないか、ということをいろいろ思う。


第一世界を目指していく過程で、
その手段としていろいろなかたちを伴った何かが生み出されるとしても、
本人にしてみれば、もうその残骸はどうでもいいものになってしまう。

その残骸のバランス加減を見て「あの頃はいい出来だった、もう一度あの感じで頼む」
ということを求められたり、あるいは、残骸だけをみつめて「うわー、素敵な人ですね」
と偶像崇拝状態で取り違えられることも虚しいのだ。

そんなことを思う人は少ないのだろうな。
取り違えであってもなんでもいいから注目や称賛を集め、富や名声をかき集めることが、
有限の世界でのマネーゲームごっこのメインイベントなのだから。


ここ数日ほんとうに頭がまわらない勢いで暑い。
こんなときは、生きているだけで、生き残っているだけで偉いとほんと思う。

キネシス領域ではなくて、エネルゲイア領域が主として据えられた世界に生きるということは、
こんな風に暑くてだるくてたまらないときに、
いろいろな雑事に手がまわる元気がなくて部屋がちらかったり、
予定がはかどらなかったりしたときに、
「もっとちゃんとやっておけば」と自分を責め、
だるい身体に鞭打って物資界を整える方向にがんばるのではなく、
そういう状態(つまり、あまり快適じゃなかったり不便だったりする状態)をそのまま、
淡々と楽しんでやりくりする、ということじゃないのかなと思う。

見た目は美しくないから、他人様に自慢できるものでもなんでもないけれど、
自分で責任が取れる状態で生きているなら、こういう意味で淡々と無理なく生きることができる。

そういう自由をわたしは今得ていて、とても満ち足りている。

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