2015年11月13日金曜日

本日の魔法の呪文 134



"ここで一つ、わたしたちにできる最善と思われるアドバイスを述べておきます。それは、「観念でセメントのブロックをこしらえることなかれ」ということです。
なぜならそんなふうになると、あなた自身が最後にはセメントブロックに取り囲まれ、箱詰めにされてしまう可能性があるからです。"

アセンションの時代 迷走する地球人へのプレアデスの智慧 バーバラ・マーシニアック
P137より抜粋


いじわるに響いてくる声は、全部ニセモノなのだな。
焦らせたり、自信を奪ったり、義務感をあおるのも。


そのことを忘れず、忍耐強く。

2015年11月12日木曜日

本日の魔法の呪文 133



"ちょうど我々が台所という作業場で玄米、人参、大麦、海塩、キャベツなどと向き合い親しくなったように、化学元素とも同じように親しくなる時宣であろう。"

エドワード・エスコー アレックス・ジャック著 七林 秀郷訳  Cool Fusion P36より抜粋

ポエマーとして世界を眺めたとき、
日常生活のありとあらゆる所作は、
大がかりなことと同じ構造をもっており、
操り人形を操る人形使いのように、それはお互い呼応する。
わたしが人形遣いにならなければ、わたしが操られる側になるのだ。

恐怖や嫌悪の気持ちというものは、どこに操らなくちゃいけない「力」があるのか、
気づかせてくれる。
それに気づいたら、下ごしらえからはじめて、ゆっくり夕飯をつくればいいのだ。

2015年11月10日火曜日

本日の魔法の呪文 132



"内面で向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる。"
                                                                                     カール・ユング


結局、体力がたくさんあると、あちこち動き回って、いろいろぶちあたって、
それでやっと気づく、ということになる。

体力がないと、動き回れないので、とどまったまま、押し寄せてくるいろいろなことを
そのまま味わいながら、そのうちに、はっと気づく。

どちらがいいということはないけど、結果的に、同じことだなと思う。

よく、動いてみないとわからない、というけれど、
正しくは、感情を伴って、一日をちゃんと味わってみないとわからない、
ということだろう。

感情を静止させたまま、たくさんのことをさばいたところで、堂々巡りにしかならないー(笑)

2015年11月9日月曜日

本日の魔法の呪文 131



"憤怒の国の苦悶は、その君主の自己性の母であり、彼の神である。今や彼はその神が欲することをなさねばならない。かくして彼は善の敵である。というのも、愛は彼にとって毒であり、殺すものだからである。たとえ彼が聖なる力をもって光のうちに座するとも、やはり彼はただ毒の苦悶を自分のうちへ引きこむばかりであろう。
実際、毒の苦しみが彼の生命と自然であるであろう。ちょうど、蛙を砂糖壺に入れてみても、蛙はそこから毒ばかりを引出し、砂糖を毒にするのと同じである。"

ベーメ小論集  恩寵の選び(部分訳)-(助言-第5章) より抜粋  P216

このことを、裏返しに味わう、ということを、ずっと今までやり続けて生きてきたなぁと思う。
元素転換が、いちばんきめこまかく行われているのは、心の中なのだ。
そして、そこで転換できているならば、何も心配はいらなくて。


2015年11月7日土曜日

本日の魔法の呪文 130



"イエスが言った。「パリサイ人や律法学者たちは知識の鍵を受けたが、それを隠した。彼らも入らないばかりか、入ろうとする人々をそうさせなかった。しかしあなたがたは、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(トマスの福音書 39)

まず、「知識の鍵」とは何を指しているのであろうか。それはわれわれが神の国に入るマスターキーはただ一つしかない、それは自己認識であるということだ。

(略)

そこにもし誰かが介在してくるとしたら、

パリサイ人はもちろん、たとえそれが神であっても、
エックハルトがその神すら後にして行かねばならないと言い、
また禅が、師に会っては師を殺し、仏に会っては仏を殺すと言ったように、
認識への道を塞ぐバリアーでしかないだろう。

われわれは蛇のように賢く振る舞い、
鳩のように素直に「自己の本性」(『この世の起源について』)へと独り辿らねばならないのだ。

(略)


このように、安易に他者依存に流れることを許さないところに宗教における最も厳しい現実がある。"

可藤豊文 自己認識への道 禅とキリスト教 P245~6 より抜粋


このトマスの福音書も、ナグ・ハマディ文書に含まれる外典の一部。


マタイによる福音書にも、この蛇と鳩の話がでてくるのだけど、
どうにもこれだと、前後関係がよくわからない。
トマスの福音書でこうやって書かれてると、納得です。


「彼らも入らない」というのがポイント。
△の内側(パラサイト)にいる人は誰も∞がわからない、という話そのものかなと。


蛇のような賢さ、というのをいったいどこに活用するかというのがポイント。
他人に騙されないように、ではなくて、
最大の詐欺師は自分のエゴと検閲官。


究極的には、他人に騙されて、その結果が生じたとしても、
それは自分にとって「騙された」ことに、本質的にはならないんだなー(笑)


はは、やっぱり禅問答になってきますね。

2015年11月3日火曜日

本日の魔法の呪文 129


"この闇の世界のうちで、悪魔は自分が一つの神であると勝手に思い込み、これらの要素とともに、虚偽というその忠実な子によって、地上を統治する。虚偽は最初は着飾った子猫のようであり、口ではうまい言葉をかけるが、いつでも鼠をねらっている。この子猫は鼠をすばやく捕えることができ、それが焼肉を悪魔のところへもっていくことができるとき、それはどんなに嬉しそうであることか。これらの四つの要素によって、人間は取り囲まれ、この偽りの王の国を楢(すみか)にするが、これらの要素は四六時中、人間の心に向けて狙いを定め、その高貴な像を殺害しようとする。人間はこれらの要素に抗してつねに闘わねばならない。というのも、それらは彼のもとに、また彼のうちに泊り込み、たえず彼に突っかかり、彼の最上の宝物を潰滅させようとするからである。"

ベーメ小論集 ヤーコプ・ベーメ P132より抜粋


悪魔、という言葉を使ってしまうと、反射的に固定観念のイメージがばっとわきおこるので、わたしはあまり使いたくないのだけど、要は、多様性を阻害したがる存在が自分の中で幅をきかせてしまうことは危険だ、という話なのだろうな。

人間は、比喩ではなくほんとに、光っている、光のかたまりだと思う。
どんな人でも、微かにでも光ってるから生きてるんだ。

それを鈍らせようとする力に、自分で何か捧げ物をしてつけこませることを、
やりつづけたいのかどうなのか。

2015年11月1日日曜日

本日の魔法の呪文 128



"人類は自分たちの責任感を取り戻すだろう。何世紀も、私たちは責任を避けようとしてきた。けれども、私たちがすることは何であれ、つねにリアクションをひき起こす。私たちは原因と結果を免れることはできない。私たちは他者の失敗に対して責任を取る必要はない。私たちは助け、愛することはできる。しかし私たちは他の人の責任を肩代わりする必要はないのである。なぜならそれは責任を避けられるという彼らの幻想を助けることになるからである。このことは自分の子供たち、伴侶、親や友人に対してさえあてはまる。もしも私たちが彼らの責任を引き受けるなら、彼らは弱くなってしまうだろう。"

ドン・ミゲル・ルイス  恐怖を超えて  トルテックの自由と歓喜へのガイド P298より抜粋

誰かの責任を、意味不明にひきうけているうち、自分に対する責任を忘れてしまう。
そして、いつのまにかそれを誰かにおしつけてしまう。
その繰り返しを絆と呼ぶのはもう嫌だ。

裁かなくていい、という話の核心そのもの、みたいな話で、
責任は個々が取ることに自動的になっているから、放っておけばいいのだ。

自分が生きていることに責任を持つって、いったいどういうことだろう?
このことはほんとうに深い。