2015年8月15日土曜日

本日の魔法の呪文 95



"また、大自然は、人間に恵みをもたらすとともに、
災害や疫病などの災難をもたらす。
このため、人智のおよばぬ大きな力を神と見なし、
その神には両面性があると信じた。
すなわち、これが「神」と「鬼」との二面性であり、
ひとりの神の中に「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」というふたつの顔があると信じられたのである。

(略)

そして、ここが大切なことなのだが、「神」と「鬼」の二面性は、一神教的な「善」と「悪」の峻別とは本質的に異なっている、ということである。
一神教における「善=神」が、「悪=悪魔」とは対極の存在であるのに対し、多神教における神と鬼は、ひとつの現象の表と裏であり、日本人にとっての神は、祟りをもたらす恐ろしい存在であるとともに、恵みをもたらすありがたい存在でもあったのだ。"

呪う天皇の暗号  関裕二 P43-44より抜粋


善と悪が、そのまま神と悪魔(悪魔=鬼と短絡的に扱われやすい)
とはならない、ということを理解するのは、簡単なようでなかなか難しい。

食でたとえるならば、
身体を冷やす作用が強いフルーツは、陰陽でいうならば陰性が強い。
このことを短絡的に善とも悪とも言えない。

たとえば、
同じ食べ物をもし配給のように均一に与えたとき、
寒い地域の人はフルーツを食べて体調を崩し、
暑い地域の人はフルーツを食べて体調が良くなる、という結果が起こる。

一神教、形式的平等を貫いてしまうと
「同じフルーツをみんなに300gずつ配給しました。平等でしょ?」
ということがおこりかねない。
一方にとって、それが生きない方向に作用することを無視している。

地域という例えで書いたが、
もっといえば、これは本来、個々の個体差が非常に強いはずなのだ。
あれといえばこれ、というように、記号に反応することで一日が過ぎていくだけの人々は、
心の仕組みも、からだの成り立ちも、入れ替わっても大差ない状態で生きている。
そういう人々にとって、配給で同じフルーツ300g、とされても何も困らない。

けれど、フルーツが苦手な人もいるのだ。
下手したら、食べたらアレルギーでショック死するかもしれない。

その人の存在は一見、和を乱し迷惑なようだけれども、
そういう人が場に存在することで、非常事態に機転をきかせて対応する知恵が保たれ、
結果的に場が救われることが往々にしてあるのだ。

場が均質的になることで、非常事態に誰も機転をきかせる人がいなくなる。

そのことのおそろしさをあまりわかっていない人々は、
短絡的に「鬼といえば悪だよね」と言い続けているように思う。

昨晩ホドロフスキーのサンタ・サングレを観たが、
あの凄惨なスプラッタホラー風味の映画で描かれている狂気とまったく同じ構造のものを、
わたしは日本で暮らす日常でいつも感じている。

ああいう形で極端にあらわれている殺人鬼だけが頭がおかしくて、
ああいう人だけつまみだせばすむのに、という話は違うのだ。

自分の中に鬼も神も存在し、どちらも暴走しないように、自分で扱っていくつもりがなければ、
殺人鬼や戦争に加担している張本人だとわたしは思っている。
涼しい顔をしている人々が一番悪だ、というのはそういう意味。

自分は鬼でも神でもない小市民だから許してね♪
と逃げ続けることがいちばんずるいとわたしは思う。

自然が持つ両極端の大きなエネルギーをなめてはいけない。
いくら、都会化し、文明の恩恵に包まれて生きているつもりでいても、
太古からなにもかわらず、自然の持つ容赦ない鬼と神の両面のエネルギーはいまも
渦巻いており、なめてかかれば相応に、自然から裁かれる。

裁いてはいけないというのは、人間が人間同士でやるもんじゃない、という意味だ。
自分のことを裁くのも、他人を裁くのも不要。

鬼からも神からも好かれる自分で生きていきたいと思う。
けものみちだけどね。

0 件のコメント:

コメントを投稿