2015年8月16日日曜日

本日の魔法の呪文 96



"LSDが精神を拡大する薬物(サイケデリック)と呼ばれている理由の一つは、
象徴的な飛翔にある。
感情に対する刺激はおうおうにして、
象徴的な観念の爆発をもたらすが、
それがしばしば、精神の拡大と誤解されているのである。
この拡大は防衛の一つであることを、私たちは理解する必要がある。
考えがひどく飛躍する躁病の人間は、
感情から遠ざかる競争における精神拡大の典型的な例である。"

原初からの叫び アーサー・ヤノフ著 中山善之訳  薬物と常用者 P308より抜粋


アリス・ミラーが、尊大な華々しさ、という言葉で、
自分とつながれていないまま大人になった人々の、一見光り輝き成功をおさめているかのような人々の心の内実は、実はものすごく悲愴なものである、といった感じのことを指摘していたけれど、
この話と、アーサー・ヤノフのこの書も大筋で同じことを指摘している。

つまり、自分から切り離されるきっかけになった体験だけは思いだしたくない、
その一心だけで生きている人々がたくさん存在しており、
その人々にとって、ファンタジーから酒から、薬物から、音楽から、仕事での成功から、
何から何まであらゆることが、そこからの「逃避」にしか使われない、ということ。

LSDは精神が拡張され、新しい世界観を手にしたような気になるらしいのだが、
そのことが、
その人の人生にいったい何の意味をもたらすのか=ファンタジーを現実にひきおろす
という文脈でこの体験をとらえたとき、
彼らは、薬が切れれば地に叩き落とされるだけで、
まったくもって、そのきらびやかなうっとりする体験が、人生に生きない。

ヤノフによると、
ただ平面的にシンボリックなイメージが増殖していくことにうっとりしてしまうだけのこと。
そのことと、人間が真に愛や美に満たされるということとはまったく関係がないのだ。
シンボルは増殖すればいいというものではなく、
有機的に、あちらの世界から、現実の世界にタグづけされなければ
何の意味もないのだ。

わたしは薬はやらないし酒も飲まないが、
音楽をやっていたときに、
そういう「酔っぱらう」という方向でやっていた部分も半分くらいあったな、
と振り返って思う。
だから、薬中の人々のからくりがよくわかるのだ。


でも彼らと違うところは、
あと半分は、ほんとうに真摯に、
あちらの世界と向き合うツールとして使っていたということ。


浦島太郎が籠目紋の籠に入れられて蓬莱山に連れて行かれたように
(魔女の宅急便で、キキが雨に遭遇して電車で移動したように)
あちらの世界にわたるために道具を借りて楽をした人々と、
自分で楽器を演奏し、自分で橋をかける行為には、かなり大きな違いがあるように思う。

自分でやった場合、かならずどこかは醒めていて、
冷静にことの成り行きを把握し、誘導する力、コントロール力は放棄していない。

この境地がわかるということはとても大事だと思う。
(ミンデルがいうハーフトランスだ。)

ホドロフスキーの映画はカルトとしてみなされ、確かに風味としては
サイケな世界観をゴージャスに描いているが、
ただ単にサイケ&ドラッグクイーン的な文脈で称賛される映画とは一線を画す。
(ロッキーホラーショーとか、ダージリン急行とか、、)

ホドの映画は、その華々しくゴージャスでうっとりする画面に圧倒されるだけで、
それを楽しむだけですませることもできる。

彼がつたえたかったポイントを伝えやすくするために、豪華な演出がなされている、
ということかもしれないけれど、
わたしは、そういう豪華さがあればあるほど、
ネオンサインで星の光がかすんでしまうように、
余計に気づいてもらえないこともあるんじゃないか、
とついつい思ってしまう。

だから、あまりおおげさにパフォーマンスをするのは好きではないのだ。

動きまわると誤解される。でも動かないと伝わらない。
このもどかしさよ.....


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