2015年8月9日日曜日

本日の魔法の呪文 92


"もう一つの道成寺解釈。
「熊野は日本の南端の死の国の一つであった。
そしてその国へさしかかる人々の<道行>は、
ただごとではない行法の一つであった。
日高川を越えた清姫が、
そこでもう一つの次元の世界に入ったことを示すために、
蛇体という姿をとらなければならなかったのであろう。
道成寺は、橘道成建立の寺と伝えられる縁起をもっているが、
その寺の名のニュアンスには、
道がここから成る熊野路の、
この世とあの世の境でもあるという印象を思わせずにはおかない」
(群司正勝 『かぶきの美学』)"

海人と天皇(上) 梅原猛 P466より抜粋


道成寺の安珍と清姫の伝説、これもまた空海が絡んでいるのではないか、
というにおいがぷんぷんする。

錬金術には2つの側面があって、
実際に貴金属を生成する要素(キネシス領域での果実)と、
精神面での豊かさを得る要素(エネルゲイア領域での果実)と、
両方あるのではないかなと思っています。

道成寺の伝説は、実際に熊野のこのエリアが鍛冶場であることもあり、
金属生成と深く絡んでいますが、
もうひとつ、ゲーテのメルヒェン的な視点でこの話をとらえたとき、
こういった異類婚姻譚的なストーリーは、
右脳と左脳に橋をかける行為のメタファーであり、精神的な危機としては、
死を覚悟した冒険に匹敵するのかなと。
そして、安珍はこれに失敗した例なのかなと思いました。

梅原さんは第十章 道成寺の考古学的調査、の箇所で、
なぜこの異類婚姻譚が成就しなかったのか?という疑問をなげかけてらっしゃるが、

わたしの勝手なひらめきにより、エネルゲイア領域の果実を失ったこととひきかえに、
キネシス領域での果実を得たのではないか、そういうメタファーを含むおはなしなのではないか、
と思います。

実際今の世の中が、何をひきかえに物質的な豊かさを得たのかということと、
そっくりそのまま構造が同じだから。

空海は、そんなこともわかった上で、
「でもみなさんは、それでも、キネシス領域の果実の方がお好きなのでしょう」
ということで、いろいろなかたち重視な業績を残したのではないかしらん。

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