2015年7月3日金曜日

本日の魔法の呪文 55


もう一度学校に通っているようなものだった。
今回は自分が教師でもあり、生徒でもあった。
学びというものが本当はどのように起こるのかがわかり始めていた。"

光の医学  ジェイコブ・リバーマン 飯村大助 訳 P189より抜粋

こないだからずっと、偶像崇拝、記号について考えているのだけれども、
それがいけない理由の根源は、
魂と、物質がきちんと連動せず、
連動してるつもりになって増殖していくことに加担するからだ、
ということが最近ほんとうによくわかる。

このことは、ありとあらゆる場面で、
ミトコンドリアのように同じ構造があり、
この連動をしていないものが偽物であり、
連動しているものが本物である、ということ。

そういう意味で、
いくらいろいろな宇宙の法則が体系化されたものがあっても、
それをかたちだけなぞったところで、理解できるわけがないのだ。

だから、もともと教えを説いた本人はちゃんと理解していたのに、
広められたメソッドが下手したら害悪にしかならない、ということが起こる。

体系化を自分でやるからこそ、
魂と物質の連動が生じて本物になるわけで、
他人が体系化したものを、
他人仕様になってる順で教わったってぴんとくるわけがない。
ぴんときたつもりになり、
死骸残骸な知識ばかりがやたらと増えるだけになるのだ。

どうやって体系化するのか、について、
それをそれなりに試行錯誤して生きている人のそばにいって感染させてもらうこと。
これが一番生きた学びになる。
その精度が高ければ高いほど、
「今学んでる」
ということすら頭によぎらないくらい
自然な動きになる。
だから、先生と生徒、みたいな仰々しい役割分担すら生じない。


自由な学びをする理由に、
どこか今の世の中で出し抜いてやれ、という欲があるなら、
それは必ず失敗するだろう。


自由に子どもを学ばせる、ということの最終目的に、
そうした方が学歴が結果的に高くなるだろう、
という欲をちらつかせないでいられる親が、
どのくらいいるだろう?


どうせ大人になったら、
記号に徹して真っ暗な人生を歩むものなのだから、
子どものときだけ、思い出としてのびのび自由な保育を、
みたいな話をよく耳にするけど、反吐が出るよ。


そういうことに、「自由な教育」が持ち出されるのなら、
そういうことに手をださないでいるより、
余計にひどい偶像崇拝そのものだと思う。


学びというものはそんなものじゃない。
自分のストーリーを放り投げず生きるってそんなことじゃない。

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