2015年7月13日月曜日

本日の魔法の呪文 65



"そういう点では、
ヒドリはかならずしも花巻地域で使われていた局地的な方言ではなく、
もっと一般的に使われていた公用語であったと、
こう結論しているんです。
この和田文雄さんの意見はきくべきだと思いますね。
説得力があるし、いろんな広がりをもっている説だと思う。
それから、例の「雨ニモマケズ」の詩ですがね、

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

この文章についても、
ヒデリのときは涙なんか流さないはずだ、といっている。
日照りのときは決して農民というのは涙を流さない。
もっとも極端な日照りのときは減収に繋がるかもしれないけれども、
水田の場合はかならずしもそうはいえない。"

デクノボー 宮沢賢治の叫び 山折哲雄× 吉田司 
P230 第六章 「銀河鉄道」で行きたかったところ より抜粋


この山折さんと吉田さんによる対談形式ですすむ解説本、
いろいろおもしろい考察が書かれていてふむふむ、
と読んでいました(わたしにはよくわからない用語もたくさんですが、、)

この中で、「ヒデリ」ではなく「ヒドリ」ではないか、
ということが書かれている箇所を抜粋してみました。

ヒドリ、というのは、当時の日雇い労働のようなもので、
ほとんど公共事業の原型のようなものらしい。
そういうことをしないと食べていけないことへの哀歌、
という位置づけでこの詩を読むと、
確かに納得がいくようにわたしも思いました。
(とはいいつつ、賢治はいいとこの坊っちゃんですからね、、、)


そして、この水はけがわるい土地では、かえって日照りの方が収量が上がる、
というのもすごくよくわかります。
水はけが悪い土地で栽培するのって、ほんと大変ですもん。。。
以前借りていた家庭菜園がまさに、水はけがとても悪かったので、
植えられるものが限られていたことを思いだしました。


この「ヒデリ」という言葉へのまちがった解釈だけでなく、
宮沢賢治を美化する理由のひとつに、ピュアさがあると思うのだけど、
あらためて、うーん、どうなんだろう、、と唸ってしまった。


わたしが女性であるからかもしれないが、
賢治的な意味でのベジというスタンス及び、
童心というものは、ちょっと納得がいかない。
それは単に「未熟」であるだけではないかと。
そして、彼がベジに固執したのも、自分の持つ力を扱いきれず抑圧するために
肉を食べなかった、という気がすごくする。

つまり、ほんとは、お肉が美味しい、と思ってたのじゃなかろうか。

そういうのって、全然ピュアじゃないんだけどなーー

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