2015年7月20日月曜日

本日の魔法の呪文 72



" いわゆる確実で厳密な真理というものを求めた人々は、
特定の種類の「傷」を帯びているのではないか。
その傷の隠蔽から生まれる特定の種類の「不安」から、
確実性と厳密性への渇望が生まれ、
これがいわゆる「科学」や「哲学」を生み出してきたのではないか、と私は思うのである。
(略)

もしも、魂の傷に「よりマシ」なものなどないとすれば、
古代の聖人の教えるように、
自らの魂の帯びる傷そのものから目を背けぬように努力し、
自らを治癒し、
成長させていくこと以外に、
真の智慧に到達する道はない、ということになる。

これが「魂の脱植民地化」の必要性の根拠だと私は考えている。"

合理的な神秘主義 生きるための思想史  安冨 歩  P290 より抜粋

ものすごくものすごくおおむかしには、
「かたち」というものは、
ほんとうにイチから自分で生み出さないと存在し得ないものだったから、
何かがかたちとなって具現化される、ということにすごく大きな意味があったし、
それをすることがすごいこと、だったように思う。

けれど今は、かたちはいくらでもそこらじゅうに転がっていて、
自分でかたちを生み出す隙間がほとんどない。
ほとんど、既にもうその辺に転がっている形骸化した記号を拾い集め、
また並べ替えるくらいしかできない。

命のエネルギーを、自分と世界との間で循環させることが、
何かを生み出すことのおおもとであるとするならば、
今は逆に、あえてかたちにしないで循環を生じさせることに、
いちばん熱くほんもののエネルギーが流れるのではないか。

そういう風に感じるのはわたしだけかもしれないが、
現時点のわたしにとってリアルな感触はこれなのだ。
これがすぎたら自然に、かたちに落としたくなる時がくるだろうが、
このよくわからない見えない世界をしっかり通るということを経ないと、
次がない。

人によってきっと、そういう時期は必ず巡ってくる。そういうものなのかも。

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