2015年8月30日日曜日

本日の魔法の呪文 108


" ふたつの極に分かれた正反対のものを、
ふたつのまったく分離されたものと見ないでください。
そのふたつのものは、お互いにサポートしあいながら、
何かひとつのことをあなたに伝えようとしています。"

BASHAR GOLD P288より抜粋

一休の地獄太夫の話、サドの話、パラサイトの話、星の王子様の飼い馴らしの話、、、

これらの話はみんな共通の領域の話。

この領域内で生きることにセンチメンタルになっている場合じゃないのだーーーー

2015年8月29日土曜日

本日の魔法の呪文 107



"商品を売るための広告とともに発展した大量消費社会は、
やがて刺激喚起剤としてのシンボル自体を消費する段階に達するしかないのだ。
してシンボルが食いつくされたあとは消費社会の死滅が残るのみ。
だから、その流れを促進する機能を担わされた広告は、いってみれば黙示録の騎士、
あるいはトリックスターのごとき「予兆をもたらす者」の役割を演じざるを得ない。
ということはつまり、サブリミナル広告も含めたアド・クリエイターの仕事は、
アートでも娯楽でもなんでもなく、単に「死滅回游をすすめる企業活動」の一環なのである。"

99万年の叡智 荒俣宏  第三部 非理性のテクノロジー 広告の大いなる愛 P365より抜粋

荒俣宏のこの本は、他のテーマもかなりマニアックでとてもおもしろい。
一貫して描かれているからくりをひっくりかえして眺めてみると、
たとえば今回の引用部分の「予兆」にしても、
個人がビジョンをもてれば、予兆の役割は意味をなさなくなる。

外から無意味にもたらされるストーリーやシンボルに嫌気がさすところまで、
もう多くの人は到達しているのではないか。

最近ついったーで画像検索をするのがあまり楽しくないのだけど、
最近は、徹底的に自分の中から無駄な、偶像崇拝的なイメージを全部追い出している。
そうすることで、それでもまた生まれてくるエネルギー、自分由来のシンボリックな並行世界が
たちあらわれてくるのを、焦らず待ちたいと思ってる。

わけのわからん外からの偽物の刺激はもうほんとつまんない。

2015年8月28日金曜日

本日の魔法の呪文 106



"盛運の家でも、庭に築山・泉水などのある家は、
それ以後衰運に向うことはあっても、それ以上盛運になることはない。"

食は運命を左右する
水野南北著  玉井豊一郎 訳 P56より抜粋


物質領域と精神領域で、二本立てで陰陽がなりたっており、これらは反対になる、
ということに気づき始めたのは、
食と占星術の関連性を実例と共に観察しはじめてからだったのだけど、
このことは風水などとも非常に関連してくる。

今回の引用箇所で、
どうして庭にこういった一見ラッキーアイテムみたいなものを置いたらあかんのか、
ということは、それを物質領域で、本人のストーリーと関係なくぶったてることが、
かえってその人のエネルゲイア領域(精神領域)を阻害し、結果的に運命が傾く、
という陰陽の法則そのものだと思う。

これと同様、どうして肉を食べるとあかんのか、という話を
この方向で解析していったとき、
血という、まさに自分の心と肉体の相互作用、
ストーリーの結果生まれた結晶のようなものを、
他の動物がそうやって生み出したものを横取りしていただくからではないか。
その様子がまさに、庭にラッキーアイテムを唐突に持ち込む様子そのもの。

旧暦八月にうちの近くの神社でも放生会があるけれど、
そんな風にお祈りしたりしてすむレベルじゃないのだ。

日本人はもともと菜食文化が長い地域に生きてきており、
その結果、炭水化物メインの暮らし=脳が大きい民族だ。

にもかかわらず、世界で一番質の悪い肉の食べ方をしている。
(脂肪が多い箇所を喜んで食べるのを好み、野菜と合わせて食べたり、毒消しをしながら食べたりということがあまりない)

そういうわけで、世界で一番、ほとんど狂牛病のように、脳がおかしくなっているのは、
日本人じゃないのかと思う。

全員が狂えば、まともな人が狂人扱いされるのはあたりまえだ......

2015年8月27日木曜日

本日の魔法の呪文 105



"易の言葉に「方以類聚,物以群分,吉凶生矣」
(方は類をもってあつまり、物は群をもって分れ吉凶生ず)
というのがある。
もともと天地の陰陽には吉と凶などなく、
形と心をもつ人間によって、初めて吉凶が生れるというわけである。

P65

【問】「私は食を慎しむことはたやすいけれど、遊所行きを止める事は難しく悩んでいます」

【答】「それは大いに結構なことだ。何と言っても慎みの第一は食である。
遊所に行って散財し、放蕩と言っても、
食を慎んでいれば家が失くなったり、病気になることはなく、
長生きしておのずから富むのである。
食は本である。
その本を厳しく慎めば外のことは枝であり論ずるに足りない。
今後とも食を慎んで遊所に行きなさい。食を慎んでさえおればすべての凶悪は許される。

P77

食は運命を左右する
水野南北著  玉井豊一郎 訳

水野南北の、この玉井氏による訳は、100%賛同するわけではないけれど、
陰陽論としてみたときに理に適った説明がいくつかあるので抜粋してあげてみる。

1つめ、P65からの引用は、
結局、自分側が電極としてプラスかマイナスかどちらなのかによって、
外的要因が自分とあわさったときに、結果どう作用するかは変わるということだと思う。
万人にとっての同じ結果をもたらす外的要因というものはないのだよね。

2つめ、P77からの引用、
これ、わたしの見解としては、ほんまに菜食が美味しいと思えるならば、
遊所に通うことが楽しいと思えなくなるはずやねんけどな、、、
金で買える肉体の快楽(プラスエントロピー)が心地よいということは、酸化のエネルギー
(心と肉体が分離したエネルギー)が心地よいと思っているということ。

いくら菜食をしていたところで、ほんとは肉が食べたい人なんじゃないのか?
そういう気持ちなのに、かたちだけ肉を避けたところで、作用は形骸化してしまう。

まあ、確かに後半に書かれている、
食以外のことは枝であるというのはまさしくそうで、
ここがちゃんとしてる人は、
なーんも説明がいらん。勝手に悟っていく(笑)
健康に良い、とあたまでっかちに菜食をはじめた人ではなく、
まずくて、においが気持ち悪くて食べられなくなった系の人々はとくにそうだと思う。

2015年8月24日月曜日

本日の魔法の呪文 104



"過去にとらわれている人間がまぎれもなく過去を一切持ち合せていないことは、
奇妙な矛盾である。
そうした人間は原初的な苦痛によって、過去から切り離されているのである。
そこで彼は、自分の歴史を無意識のうちに毎日、行動にうつしつづけなければならない。
それがために彼は、生涯を通じて大きく変ることはない。
彼は四十歳になっても十二歳のときとさして変わらない。
彼は自分の闘争のなかを左右にぬって歩き、
神経症的な儀式をおこない、
一言ごとに自分の神経症のことを臭わせ、
小さなときの家庭の状況を再構成する新しい種をたえず見つけ出している。

正常な人間は歴史を、自己の連続性を、持ちそなえているし、
それは苦痛によって短絡していない。正常な人間は、自分のすべてを持ちそなえている。"

アーサー・ヤノフ 原初からの叫び P350より抜粋

わたしが小さな頃から、脳裏にいつもちらついていたのが、巻物のような年表のイメージであり、
そしてそれは20歳をすぎたあたりからぷっつりと闇の中に溶けてしまい、そこから先がない、というものだった。
そのあたりまでは精巧に予定が組まれており、実際そのとおりにばかみたいに歩んだ。
そして、そのとおりに、ぷっつりとその先がなくなった。

今思えば、パラサイトの巻物だったのかもしれない(笑)

その頃までの人生と、その後の人生に、わたしは連続性がない。

息子との暮らしの積み重ねは、100%わたしが納得してずっと積み重ねてきたものだ。
産むときから、全部自分で納得した上で生み、そのことで生じた不利益や大変さを全部引き受けてきた代わりに、その果実も全部得てきている。

積み重ねることの尊さやあたたかみというものを、わたしは20歳をすぎるまで知らなかった。
いつもいつも、すりかえることで様々なことが断絶され、すりかえることでほっとする、
その連続で生きてきたからだ。


息子との暮らしが長くなり、わたしが時々、彼との暮らしにおける連続性を軽視しすぎるときがあるのだけれども、息子は等身大に、その尊さをかたときも忘れていない。

その証拠は、わたしがだめな母親であろうと、優しい母親であろうと、怒りん坊であろうと、
彼はいつもわたしに信頼を寄せてくれている。

あたたかな積み重ねというものは、やったらやった分ちゃんと報われるよ。

2015年8月23日日曜日

本日の魔法の呪文 103

"個体でも社会現象でも、カタヨリがひどくなり、
分極が固定すれば、電気欠亡部位は、「癌的病状」を呈することになる。"

相似象学会誌 第四号  P230より抜粋

罰や規則というものがあることで、それをやらない、ということの愚かさ。
確かに、それをやらないということには違いないので、
カタヨリは生じていないかのように思える。
けど、精神状態としてとらえたときに、
その人はいったいどういう心持ちでそれをやらずにいるのだろう?

自分が納得しており、それをやりたいとも思わないからやらない、という状態と、
ほんとうはやりたいけど、罰せられたり、世間的に損をするからしぶしぶ我慢する、
という状態を、生命体としてホールネスでとらえたとき、
雲泥の差がある。

少し関係ない話だけど、
図書館で、刑務所の中を撮影した写真集を見た。
女性刑務所のページで唖然とした。

わたしが好きな、和の手仕事なんかを、
手に職をつけるべく教わっている光景が映っていた。

刑務所は桃源郷という言葉があるけれど、ほんとにそうかもしれない.....









2015年8月22日土曜日

本日の魔法の呪文 102


"最後に、メタファーのi位置を確かめておこう。メタファーは、三角形の頂点に立ち、現実世界と意味世界の橋渡しをする。意味世界は、私たちの内にあり、現実世界は、私たちの外にある。両世界を結ぶメタファーは、私たちの身体が媒介する。身体の表面に張りめぐらされた視・聴・嗅・味・触の五感は、世界に向けて広げられた敏感なアンテナ。五感のメタファーが、世界を理解する-外の情報を内の意味に転換する(理解可能なものに変える)-上で、とくに重要な働きをするのは、このためである。"

メタファー思考  瀬戸賢一 P206より抜粋

ヒエラルキーのいちばん上に据えられるものは、もしもそのヒエラルキーが宇宙の法則に合致しているならば、エネルゲイア領域でしか完全ではありえないものが据えられるはず。

つまり、現実世界に落とされた時に、個別具体的な何かが対象とされることはないはずなのだ。
もしそうなってしまっている、あるいは、意図的にそれが望まれてしまったなら、
ここで書かれているような「五感のアンテナ」が、一定方向に反応する人々だけが正しい、
と矯正する世の中になってしまっていることを意味するとわたしは思う。

そういう、不自然な固着化は、
最終的に、△全体の崩壊を意味すると思う。

水は答えを知っている、の江本さんの最近の本で、
宗教ごとに水の結晶を可視化し、写真にしたものが出ているけれども、
全ての結晶が「6」ベースの結晶として美しくかたちをなしている。

結晶というものも、比喩でしかないんだけどな。
クリストファー・ウィリアムズがいう最密充填(空間内に同じ大きさの物質を最も密に詰めようとするときに自然に生じる物理法則)では、六角形になる。
それは、単に円が劣化したものでしかない。

つまり、唯物論の世界で、世界を説明することはありえない。
なのに、人は説明を求めるのだ。
それに応えようとするサービス精神は、果たしてどう作用するのか、、、


CADで製図しているとき、円を描いていると、
作業が続くにつれて円がだんだんカクカクの多角形になってくるが、
いくら角を多くし、遠目に円に見えたところで、それは円ではない。
決して。
その大きな違いというものをばかにしてはいけない。


江本さんの本ではまた、神道と振動が関連するのでは、とも言及されていたが、
それは単に、拡声器じゃないのかとも言える。
宗教というものの本質は拡声器かもしれない。
その本質=ヒエラルキーの一番上に据えられているものがまちがっていれば、
まちがったまま拡声器で、ラウドボイスで拡散増殖される。