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2015年8月22日土曜日

本日の魔法の呪文 102


"最後に、メタファーのi位置を確かめておこう。メタファーは、三角形の頂点に立ち、現実世界と意味世界の橋渡しをする。意味世界は、私たちの内にあり、現実世界は、私たちの外にある。両世界を結ぶメタファーは、私たちの身体が媒介する。身体の表面に張りめぐらされた視・聴・嗅・味・触の五感は、世界に向けて広げられた敏感なアンテナ。五感のメタファーが、世界を理解する-外の情報を内の意味に転換する(理解可能なものに変える)-上で、とくに重要な働きをするのは、このためである。"

メタファー思考  瀬戸賢一 P206より抜粋

ヒエラルキーのいちばん上に据えられるものは、もしもそのヒエラルキーが宇宙の法則に合致しているならば、エネルゲイア領域でしか完全ではありえないものが据えられるはず。

つまり、現実世界に落とされた時に、個別具体的な何かが対象とされることはないはずなのだ。
もしそうなってしまっている、あるいは、意図的にそれが望まれてしまったなら、
ここで書かれているような「五感のアンテナ」が、一定方向に反応する人々だけが正しい、
と矯正する世の中になってしまっていることを意味するとわたしは思う。

そういう、不自然な固着化は、
最終的に、△全体の崩壊を意味すると思う。

水は答えを知っている、の江本さんの最近の本で、
宗教ごとに水の結晶を可視化し、写真にしたものが出ているけれども、
全ての結晶が「6」ベースの結晶として美しくかたちをなしている。

結晶というものも、比喩でしかないんだけどな。
クリストファー・ウィリアムズがいう最密充填(空間内に同じ大きさの物質を最も密に詰めようとするときに自然に生じる物理法則)では、六角形になる。
それは、単に円が劣化したものでしかない。

つまり、唯物論の世界で、世界を説明することはありえない。
なのに、人は説明を求めるのだ。
それに応えようとするサービス精神は、果たしてどう作用するのか、、、


CADで製図しているとき、円を描いていると、
作業が続くにつれて円がだんだんカクカクの多角形になってくるが、
いくら角を多くし、遠目に円に見えたところで、それは円ではない。
決して。
その大きな違いというものをばかにしてはいけない。


江本さんの本ではまた、神道と振動が関連するのでは、とも言及されていたが、
それは単に、拡声器じゃないのかとも言える。
宗教というものの本質は拡声器かもしれない。
その本質=ヒエラルキーの一番上に据えられているものがまちがっていれば、
まちがったまま拡声器で、ラウドボイスで拡散増殖される。

2015年8月18日火曜日

本日の魔法の呪文 98


"窓がかたかたと鳴っているのを指して、子どもが「窓が寒い寒いといっているよ」というメタファーを発したとしよう。猫を「ワンワン」というのはやがて消えるが、窓の例のような擬人的なメタファーは、その後もなお続く。なお続いて私たちの心に沈殿する。そして、私たちがいま「窓が震えている」というとき、私たちも、いくぶんか、まだそこにメタファーの意味をこめて使っているのではないだろうか。古代の人は、火山が噴火するのは、山が「怒っている」というように、擬人的メタファーを通して理解した。私たちは現在、このような心性から完全に自由になっているといえるだろうか。"

メタファー思考 瀬戸賢一 P152より抜粋


瀬戸さんの本をはじめて手にとったが、
とても読みやすくわかりやすいので、他のもじっくり読んでみたいと思う。

わたしがメタファーやシンボルについて深く首をつっこむきっかけになったのは、
占星術の延長みたいなところからだけれども、
メタファーやシンボルの読み違え、というものを起こしやすい人と、
起こしにくい人という差は歴然とあって、それはいったいどこにあるんだろう?
ということをずっと考えている。

友人の師匠がずっと言っていた「気根」がない人はどうしようもない、
という言葉があるのだけれど、
まさに、読み違えをする人はこの「気根」がないタイプなのだと思う。

唯物論は、この「気根」がない人とある人、「カン」が良い人悪い人を平等に扱う世界だ。
理由は、この2つはエネルゲイア領域で顕著にあらわれるものであり、
この領域をないことにしてしまえば差がつかなくなるからだ。

そのことを利用して、散々にひどいことをやりつくした人々は、
あとでそれだけの辻褄を合わせる事になる。

逆に、この領域があることに気づき、それを忘れてしまう事ができず生きる人々は、
今の世に生きる事は痛みと苦しみの連続だろう。
でも、それと同時に、生きていることの楽しさ、素晴らしさ、愛というものを、
ちゃんと感じられるというご褒美がついてくるのだ。

今日も息子が唐突に「ママ、僕は生きてて楽しいねん♪」と話しかけてきたが、
生の感情を全て、360度自由に表面化して生きる世界の楽しさを、
わたしは息子からいつも教わっている。