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2015年11月12日木曜日

本日の魔法の呪文 133



"ちょうど我々が台所という作業場で玄米、人参、大麦、海塩、キャベツなどと向き合い親しくなったように、化学元素とも同じように親しくなる時宣であろう。"

エドワード・エスコー アレックス・ジャック著 七林 秀郷訳  Cool Fusion P36より抜粋

ポエマーとして世界を眺めたとき、
日常生活のありとあらゆる所作は、
大がかりなことと同じ構造をもっており、
操り人形を操る人形使いのように、それはお互い呼応する。
わたしが人形遣いにならなければ、わたしが操られる側になるのだ。

恐怖や嫌悪の気持ちというものは、どこに操らなくちゃいけない「力」があるのか、
気づかせてくれる。
それに気づいたら、下ごしらえからはじめて、ゆっくり夕飯をつくればいいのだ。

2015年8月27日木曜日

本日の魔法の呪文 105



"易の言葉に「方以類聚,物以群分,吉凶生矣」
(方は類をもってあつまり、物は群をもって分れ吉凶生ず)
というのがある。
もともと天地の陰陽には吉と凶などなく、
形と心をもつ人間によって、初めて吉凶が生れるというわけである。

P65

【問】「私は食を慎しむことはたやすいけれど、遊所行きを止める事は難しく悩んでいます」

【答】「それは大いに結構なことだ。何と言っても慎みの第一は食である。
遊所に行って散財し、放蕩と言っても、
食を慎んでいれば家が失くなったり、病気になることはなく、
長生きしておのずから富むのである。
食は本である。
その本を厳しく慎めば外のことは枝であり論ずるに足りない。
今後とも食を慎んで遊所に行きなさい。食を慎んでさえおればすべての凶悪は許される。

P77

食は運命を左右する
水野南北著  玉井豊一郎 訳

水野南北の、この玉井氏による訳は、100%賛同するわけではないけれど、
陰陽論としてみたときに理に適った説明がいくつかあるので抜粋してあげてみる。

1つめ、P65からの引用は、
結局、自分側が電極としてプラスかマイナスかどちらなのかによって、
外的要因が自分とあわさったときに、結果どう作用するかは変わるということだと思う。
万人にとっての同じ結果をもたらす外的要因というものはないのだよね。

2つめ、P77からの引用、
これ、わたしの見解としては、ほんまに菜食が美味しいと思えるならば、
遊所に通うことが楽しいと思えなくなるはずやねんけどな、、、
金で買える肉体の快楽(プラスエントロピー)が心地よいということは、酸化のエネルギー
(心と肉体が分離したエネルギー)が心地よいと思っているということ。

いくら菜食をしていたところで、ほんとは肉が食べたい人なんじゃないのか?
そういう気持ちなのに、かたちだけ肉を避けたところで、作用は形骸化してしまう。

まあ、確かに後半に書かれている、
食以外のことは枝であるというのはまさしくそうで、
ここがちゃんとしてる人は、
なーんも説明がいらん。勝手に悟っていく(笑)
健康に良い、とあたまでっかちに菜食をはじめた人ではなく、
まずくて、においが気持ち悪くて食べられなくなった系の人々はとくにそうだと思う。

2015年8月23日日曜日

本日の魔法の呪文 103

"個体でも社会現象でも、カタヨリがひどくなり、
分極が固定すれば、電気欠亡部位は、「癌的病状」を呈することになる。"

相似象学会誌 第四号  P230より抜粋

罰や規則というものがあることで、それをやらない、ということの愚かさ。
確かに、それをやらないということには違いないので、
カタヨリは生じていないかのように思える。
けど、精神状態としてとらえたときに、
その人はいったいどういう心持ちでそれをやらずにいるのだろう?

自分が納得しており、それをやりたいとも思わないからやらない、という状態と、
ほんとうはやりたいけど、罰せられたり、世間的に損をするからしぶしぶ我慢する、
という状態を、生命体としてホールネスでとらえたとき、
雲泥の差がある。

少し関係ない話だけど、
図書館で、刑務所の中を撮影した写真集を見た。
女性刑務所のページで唖然とした。

わたしが好きな、和の手仕事なんかを、
手に職をつけるべく教わっている光景が映っていた。

刑務所は桃源郷という言葉があるけれど、ほんとにそうかもしれない.....









2015年8月17日月曜日

本日の魔法の呪文 97


"一般にアラブの貧困国では、獣肉は大変な贅沢品である。
普段彼らが食べているものといえば、
豆の煮込みとトルシー(野菜の漬物)とパンくらいのものである。
ネパールではダル(豆カレー)とタルカリ(野菜の煮物)とコメである。
興味深いことに、それらは日本の「味噌汁、漬物、白飯」の組み合わせと見事に一致する。"

ハビビな人々 中山茂大 P144より抜粋

いつも思うけど、ベジやってると、多くの人々がご馳走、と思うものがご馳走に思えず、
貧しい粗末な食事、と言われているものが美味しくてたまらない。

この本には、バングラディッシュの話もちらっと触れてあり、
バングラディッシュの青年にとっつかまると、
祖国賛美をえんえん聴かされてうんざりする(国土として何も自慢できるものはないくせに)、
といったエピソードが書いてあるのだが、
わたしも昔の職場でバングラディッシュ人と働いたことがあり、
彼のきらきらした瞳と、自分の家族と国が大好きでたまらない、
といった素朴で熱い心にとてもびっくりした覚えがある。

今の日本に欠けているのはこの感覚やなぁとほんと思う。

どうして彼が、てらいもなく家族や祖国が大好き、と口にできるのか。
わたしたちはどうして、それができずに一瞬ひるみ、曖昧なほほえみを浮かべてしまうのか。

あらためて、ほんとに次の世界へ行きたいならば、
立場を変えることで(下克上(笑))は何も解決しない。

今いる立場で、それぞれがいる立場で、この状態に対する認識を変えていく、
それしかないんだろうな、とあらためて思う。

立場を取り替え、すりかえることをしないことは怠慢だ、努力が足りない、
という文脈で、散々責められてきた人はとても多いように思う。
あるいは、立場を守り、あけわたすな、
ということだけを徹底するように言われてきた人も同様だ。

問題の核心は立場をどう扱うか、にはなくて。

朝三暮四のように、立場を切り換えたところで、あるいは立場を守るために
小手先の変化でめくらましをしたところで、、

支配被支配の世界では、どこにも愛はないのだ。

2015年8月15日土曜日

本日の魔法の呪文 95



"また、大自然は、人間に恵みをもたらすとともに、
災害や疫病などの災難をもたらす。
このため、人智のおよばぬ大きな力を神と見なし、
その神には両面性があると信じた。
すなわち、これが「神」と「鬼」との二面性であり、
ひとりの神の中に「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」というふたつの顔があると信じられたのである。

(略)

そして、ここが大切なことなのだが、「神」と「鬼」の二面性は、一神教的な「善」と「悪」の峻別とは本質的に異なっている、ということである。
一神教における「善=神」が、「悪=悪魔」とは対極の存在であるのに対し、多神教における神と鬼は、ひとつの現象の表と裏であり、日本人にとっての神は、祟りをもたらす恐ろしい存在であるとともに、恵みをもたらすありがたい存在でもあったのだ。"

呪う天皇の暗号  関裕二 P43-44より抜粋


善と悪が、そのまま神と悪魔(悪魔=鬼と短絡的に扱われやすい)
とはならない、ということを理解するのは、簡単なようでなかなか難しい。

食でたとえるならば、
身体を冷やす作用が強いフルーツは、陰陽でいうならば陰性が強い。
このことを短絡的に善とも悪とも言えない。

たとえば、
同じ食べ物をもし配給のように均一に与えたとき、
寒い地域の人はフルーツを食べて体調を崩し、
暑い地域の人はフルーツを食べて体調が良くなる、という結果が起こる。

一神教、形式的平等を貫いてしまうと
「同じフルーツをみんなに300gずつ配給しました。平等でしょ?」
ということがおこりかねない。
一方にとって、それが生きない方向に作用することを無視している。

地域という例えで書いたが、
もっといえば、これは本来、個々の個体差が非常に強いはずなのだ。
あれといえばこれ、というように、記号に反応することで一日が過ぎていくだけの人々は、
心の仕組みも、からだの成り立ちも、入れ替わっても大差ない状態で生きている。
そういう人々にとって、配給で同じフルーツ300g、とされても何も困らない。

けれど、フルーツが苦手な人もいるのだ。
下手したら、食べたらアレルギーでショック死するかもしれない。

その人の存在は一見、和を乱し迷惑なようだけれども、
そういう人が場に存在することで、非常事態に機転をきかせて対応する知恵が保たれ、
結果的に場が救われることが往々にしてあるのだ。

場が均質的になることで、非常事態に誰も機転をきかせる人がいなくなる。

そのことのおそろしさをあまりわかっていない人々は、
短絡的に「鬼といえば悪だよね」と言い続けているように思う。

昨晩ホドロフスキーのサンタ・サングレを観たが、
あの凄惨なスプラッタホラー風味の映画で描かれている狂気とまったく同じ構造のものを、
わたしは日本で暮らす日常でいつも感じている。

ああいう形で極端にあらわれている殺人鬼だけが頭がおかしくて、
ああいう人だけつまみだせばすむのに、という話は違うのだ。

自分の中に鬼も神も存在し、どちらも暴走しないように、自分で扱っていくつもりがなければ、
殺人鬼や戦争に加担している張本人だとわたしは思っている。
涼しい顔をしている人々が一番悪だ、というのはそういう意味。

自分は鬼でも神でもない小市民だから許してね♪
と逃げ続けることがいちばんずるいとわたしは思う。

自然が持つ両極端の大きなエネルギーをなめてはいけない。
いくら、都会化し、文明の恩恵に包まれて生きているつもりでいても、
太古からなにもかわらず、自然の持つ容赦ない鬼と神の両面のエネルギーはいまも
渦巻いており、なめてかかれば相応に、自然から裁かれる。

裁いてはいけないというのは、人間が人間同士でやるもんじゃない、という意味だ。
自分のことを裁くのも、他人を裁くのも不要。

鬼からも神からも好かれる自分で生きていきたいと思う。
けものみちだけどね。

2015年8月7日金曜日

本日の魔法の呪文 90



"高度の文化には、「アンバランス」は無い。
カタカムナでは、必要なものは、必要なだけ発達して居た。
アンバランスに発達するのは、人間の「欲望」がしからしめるのである。
そして欲望のままに妄動するのは、要するに、「カン」が鈍くなったからである。
一時的に繁栄し、トクをしたように見えても、やがて破綻がくる、
といふ事を、「カン」がわるければ見通せずに、欲望にふりまはされるわけである。
こうした事は、少々「カン」の良い人なら、
誰しも気づく事であるが、さて、それを、ハッキリと指摘し、
その解決の方法と、根拠を、示すことは出来なかった。"

相似象学会誌 相似象 第四号 五 余論 P259より抜粋

最近お野菜が高いなあと思うのですが、それでも運良く色とりどりの野菜が手に入り、
みょうが、きゅうり、芋の天ぷら、卵、ネギ、ゴマ、トマトをのっけて、
夕飯はカラフルな素麺をいただきました。

そういえば、宇野千代さんも、そうめんやカレーをつくるときに
色とりどりの野菜のおかずを用意して食べる、というエッセイがあったなぁ。

カンが悪い人に対して、「これはこうだから従え」と理詰めでかかわってもほんとうに無駄。
似たような別バージョンのシチュエーションが起こったとき、
彼らは全く何も学ばず、同じ過ちを繰り返すだけ。

彼らが自分ひとりで、そういうシチュエーションに直面したときに、
誰かに命令されたからではなく、自分のうちから「これしかない」と心から思える力、
カンの力を養う、ということは、いったいどうしたらいいかな、、
カンに関して、魚を与えず釣り方を教える、というのはほんとうに難しい。

そんなことをいつも思う。

とりあえず、わたしが扱える責任の範囲として、
息子だけは、カンが良いまま育ってほしいと思っている。

2015年8月5日水曜日

本日の魔法の呪文 88





"アイヌの信ずるあの世は、この世とあまり変わりはなく、ただこの世とすべてがあべこべであるという違いがあるだけである。この世の右が左、左が右、昼は夜、夜は昼、夏は冬、冬が夏という違いがあるだけである。死ねば、人は祖先の待っているそういうあの世へいき、しばらくあの世に滞在して、また同族の子孫となってこの世へかえってくる。とすれば、すべての人は祖先の誰かの生まれ変わりで、人はすべてこの世とあの世を往き来する。"

古代幻視  梅原猛著作集 P26より抜粋


エネルゲイア領域とキネシス領域があべこべになっている、
ということをはっきり意識しはじめたのは数年前だったかな。
陰陽論は二元的になっており、
精神面(エネルゲイア領域)の陰陽と、肉体面(キネシス領域)の陰陽は反対になります。

これと、首のところで神経が交差して、右左があべこべになる、ということと、
全部つながりますね。

アイヌやインディアンの人達は、
エネルゲイア領域とキネシス領域がどう結びついているか、にとてもシビアな言葉を用いる。

彼らにH2Oという概念はなく、
「ブーツの中にたまってる水」「氷が溶けた水」
というように、別々の扱いになる。

イヌイットの場合でいうなら「松の木に積もった雪」の名前と、「熊の背中に積もった雪」
も別扱いになる(幻想神空海、の中で解説されていました。またこの本再読しなくっちゃ。)

この感じがまさに、
同じメタファーがあっても、落とす先によって黒魔術にも白魔術にもなる、
ということにシビアである様子に重なる。


そういう感じで、もうすぐ木星がデトリメントになる乙女座に入っていくけれども
(わたしにとってジュピターリターン)、

霊主肉従で生きていくならば、わたしはむしろデトリメントな配置を持つことがありがたいのではないか、と気づいた。

一般的な意味合いでの「幸福」というものは、物質的、唯物論的豊かさ。
とくに木星は増殖に絡む。
エネルゲイア領域を増殖させたいのなら、
これからの乙女座木星期はうってつけなのかもしれない、とちょっと思うのでした。

2015年8月2日日曜日

本日の魔法の呪文 85



" 日本人には意外に感じられますが、
西洋絵画で純粋に「風景」が主題となるのは、かなり時代が下ってからのことです。
中世の半ばすぎまで、
人々にとって圧倒的にリアリティがあったのは、
神や天使や悪魔の存在でした。
しかも当時の教会は、自然を、やがては消滅する物質と見做し、
永遠不滅の神に対置させます。
そのため人々は、風景を愛でることと肉の快楽に耽ることを似た行為のように思い、
罪悪感すら持たされていました。"

「怖い絵」で人間を読む 中野京子 P138より


中野さんのこの本、
美術館に行く前に読むと、
とても絵を楽しむきっかけになっていいのではないかなぁと思う。
わたしは美術に関しては徹底的に門外漢なのだけど、
それでも、こういうのが好き、というのだけは勝手に自分の中にあって、
美術館にでかけるのは昔から大好きです。

わけもわからず、ただ絵から受ける印象に強烈に恐怖と魅惑を感じたり、
あるいは、とても共感するものを感じたり(描かれている風景に、全く馴染みがなくても!)
そういうことの理由みたいなものを、ひょんなことから捜し当てることができたとき、
ああ、人間って深いなぁといつも思う。

今回の引用箇所、自然すらも偶像崇拝、
いや、自然を愛でることこそが偶像崇拝、
というこの考え方、
今の世界が徹底的にあべこべになっている理由としてとてもしっくりきました。

日本人は、もともと肉食文化=死と生のコントラストに脅されて生きる
ことからいちばん縁遠い生き方の民族だったと思います。

だから、自然の無限の大きなエネルギーを前にしても、恐怖にかられる必要がなかった。

なのに、ここ数十年足らずの間に、肉食があたりまえになり、
いまや世界中のどこの国よりも乱雑なやり方で、無節操に、多種多様なタンパク質を摂取している。
もともと菜食に適した体質であるが故、そういう食生活をしたことで受ける害というものは、
西洋のたたきあげの人々よりもめちゃくちゃひどいのではないか、とわたしは感じている。

つまり、エネルゲイア領域を抹殺する度合いが、
もともとそういう感性を強く持っていたが故に一番ひどい。

その、内的世界の荒廃が、世界で一番ひどいのは今日本だと思っているけど、
それはそれだけ、大きくひっくりかえるチャンスがきているということだと
わたしは受け止めようと思っている。

実際、わたし自身がそうやって生きてきているから。

同じ景色を違う感性で眺めたいと思うなら、
いくらでもそのチャンスは転がっている。あとは、そこに手をかけるかかけないか、やね。

2015年7月30日木曜日

本日の魔法の呪文 82



"丸太という円から切り出した角材は正方形だった。
それは丸太を無駄なく、最も合理的に利用するために見出した形だった。
自然の恵みである樹木は有限の存在である。
その有限の中に、日本人は無限なるものをみていた。"

雪月花の数学 桜井進 P55より抜粋

日月神示でも、〇の中に□だ、という一節があるけれど、
白銀比(1: √2 )は、丸太から効率よく角材を切り出すときの方法論。
円の直径が、角材の対角線になるとき、対角線が√2となる。

桜沢さんの陰陽論においても、
第一世界と、第二・第三世界の対比が言及されているが、
第二・第三世界の有限をわきまえることなくして、
第一世界の豊かさを味わうことはできない。


逆にいうならば、第一世界の豊かさ=愛の世界を知らない人は、
第二・第三世界の有限の世界で、足るを知ることは永遠に無理。

愛の世界を知らなくても、あるのではないか、と信じてみる強さ。
何の保証も見返りもお得感もなくても信じてみることができた人だけ、
次の世界が開ける。

どういう境遇の人ならやりやすい、というのはほんとないよなぁと思う。
富む人も貧しい人も、病める人も健やかなる人も、
信じる気がないならみんな同じこと。。。

2015年7月23日木曜日

本日の魔法の呪文 75


"第一の世界は無限の遠心力の宇宙である。
第二、第三は有限の求心力(引力)
の世界である。
富や、権力や、地位や、知識や
あらずもがなの腕力、暴力を頼みとする人の世界である。

P115

科学や哲学は、
この小さい小さい第二の世界の
万有引力から原子の世界までの研究、
あるいは第三の世界の
一微分である人生、人間の世界の研究に没頭して、眼を上げて
第一の無限界を見ることはゼッタイにしない。
宇宙が無限である、と云うことは理解できない。
だから、カレラの宇宙はこの第二の物の世界であり、カレラの無限は、
分析の無限である。"

P109


宇宙の秩序 桜沢 如一 日本CI協会  より抜粋


宇宙の絶対的な法則、というものをあると思うのか、
そんなものはあるわけないと思うのか、
このことで生き方の軸は大きく異なると思ってます。

腕力や暴力や武力によって善悪が裁かれるのではなく、
宇宙の法則に合っていない生命体は、自然に生き残れなくなる、というのが
もともと、黙示録をはじめ、宇宙の法則を理解した人々が本来伝えたかったことだと思います。

2015年7月18日土曜日

本日の魔法の呪文70


"「原子力とオカルトとは共に、熱力学第二法則を乗り越えようとする幻想という点で、
同じ論理構造を持っている」"

原発危機と東大話法  安冨 歩  P242 より抜粋


理性や論理で説明がつく世界
(トナールだとか、パラサイトというメタファーも同じことだろう)は、
それで筋が通っていようとも、
宇宙の法則からはずれていることがたくさんあります。
そこのところまで綺麗に辻褄が合うとはどういうことなのか、
ということを、生きている間に理解するということは、ほんとうに困難。

だけど、立場主義なスタンスから離れると、
このあたりのことがかなり見えるようになります。
わたしが他の人々より明確に冴えている点があるとすればこれ。

大体、無謀にもありとあらゆる立場をかなぐりすてたくなった原動力が、
自分でも謎。今でも謎。なんでそうしたかったのか(笑)

そういうことに突き動かされた人達ならではの世界というものがあって、
そこに入りたい人は、興味本位では入れない。
花咲かじじいの灰のように、灰だけ奪っても別の効能が生じてしまう。

オカルトというものは、そういう要素を自分の責任の元引き受けられない人々に、
安全に味わってもらうために、代償とひきかえに劣化した魔法を提供する、
そういう世界ではないかなと思う。

そういう役割で食べて行ったらいいのか、と一瞬思った時期もあったけど、
おもしろくなくなったのでもうやりません。

2015年6月25日木曜日

本日の魔法の呪文 47



"おそらくハタ・ヨーガは、
こうした動作についての瞑想から発展したのではないかと思われます。
非常に小さな動作について瞑想し、
それを増幅すると、
しばしば現在ハタ・ヨーガとして知られている
元型的な姿勢に似た姿勢に導かれていきます。
小さな動きに気づき、増幅し、
そしてそれに従うことによって、
私たちはヨーガについて勉強することなしにヨーガを実践することができるのです。"

アーノルド&エイミー・ミンデル 藤見幸雄+青木聡 訳  
うしろ向きに馬に乗る P112 より抜粋


菜食歴が長い人ほど、寝ているときに寝返りをうつときですら、
無意識で行えなくなってくる。
眠っていてもどこか必ず起きていて、寝返りをうったという記憶が必ずあるのだ。

赤ちゃんのときの息子の様子をみていたときもわかりやすかったが、
食べたものによってこの寝返りの様子がほんとうに異なる。

食べすぎたり、タンパクが強い食事をしたときは、ほんとうに転げ回るのだ。
それこそ、どこかにいってしまっていない!と思ったら足元に頭と足が反転して寝ていた、
みたいなことになる。

そうでないときは、添い寝していてもちっとも邪魔にならないのだ。

(まあ、このことと、粉ミルクを大量に飲ませ、
ぐったり昏睡状態のように寝込んでいる様子について、
よく寝るから手がかからなくてお利口ね、という話は異なる、
ということをつけ加えておく)

多くの人は、自分のからだが自分のものでないかのように、
勝手に動いてしまうことに慣れきってしまっており、
ヨガの大げさに誇張した動きは、
そういった人が自覚を取り戻すために有効だから流行るのだと思う。


けれど、無意識な動きができない状態に達している人にとって、
大げさに誇張した動きはかえって害になる。

肉をたくさん食べている人にとって、
豆や豆腐料理がかろやかに感じられても、
穀物菜食をベースにしている人にとって、豆は重い。

2015年6月11日木曜日

本日の魔法の呪文 33


"霊性がリーダーシップをとって、
テクノロジーがそれに従うのが理想的です。
しかし、今はその逆になっている状態です。
だから人類はダメな方向に向かっていって、環境は破壊されているのです。"

原子転換というヒント 久司道夫 より抜粋

スタートした手仕事クラスはこんな感じ。

手を動かしながら話をしていると、ほんとうにその時に無理なく必要な
むずかしいおはなしや、「!」という生きた学びがどんどん起こってきます。

うまくできなくて途中で放り投げても、それをやってみたという体験が大事。

ただただ楽しい気持ち、かんたんにすぐ形ができることを目指すのとは違います。

クラスのみなさんは、わたしにとってお客様なので、
ほんとうはみんなに良い気分で楽しく帰宅してもらわねばならないのですが、
簡単に満足する、ということはとてもとても矛盾に満ちています。
そんなことはありえません(笑)

そんなことでは一生、
ショートケーキの上のクリームや苺だけをつまみぐいする人生です。
ぶーぶー文句を言う資格はないのです。
それでは、ほんとうの学びが置き去りにされてしまいます。
なにをやってもすぐに飽きていつも口癖が「つまんない」になっちゃいます。

霊性がリーダーシップをとった生き方をするためには、
惰性や怠惰な気持ちを黙らせて、わくわくする気持ちで突っ走る気合いが必要。

2015年5月20日水曜日

本日の魔法の呪文 11



"毒薬変じて薬となる

毒薬が一変して薬になることで、
害だったものが有益なものに変わるたとえ。
また、物は使い方によって毒にも薬にもなるというたとえ"

あすとろ出版 「故事ことわざの辞典」より

強い方向性を持ったエネルギーは、
使う人が愛をもって扱えば全部生命エネルギーに、
無責任に空っぽなまま扱えば死を促進させるエネルギーになって
はたらきます。

陰陽が相対的であるのと同じことで、
ひとつのストーリーの、どこに位置づけられるのか、によって、
同じことが毒なのか薬なのか、は常にひっくりかえります。

そのことをあらためて、しっかり意識したいです。