2015年10月29日木曜日
本日の魔法の呪文 125
"ごらんになった方ならばわかると思いますが、
ゾンビ映画の舞台になるのは、郊外型ショッピングモールが非常に多いのです。
(略)
ここまで"お約束"のように取り上げられるのには、ある"風刺"が込められているからです。
ゾンビというのはご存じのように「死人」です。
(略)
なにが言いたいかおわかりでしょう。ショッピングモールを生前の"習慣"で徘徊する死人の群れ。それはなにも考えず、ほしいものがあるわけでもないのに、休日になるとやってきて時間とカネを浪費している、われわれ現代人の姿を痛烈に皮肉っているわけです。"
日本の社会を埋めつくすカエル男の末路 深尾葉子 P148より抜粋
めでたいハロウィンシーズンですなー(厭味...
わたしは常々、アートとかファンタジーが、
現実逃避として使われるのがほんとうに嫌いなのです。
それでもいいのだ、それも受け手の自由とは思えない。
深尾さんが最後の方で、ひとりひとりが「生き残りたい」という強い思いを持ってほしい、
と熱く書きしるしてらっしゃるのに胸を打たれました。
タガメとカエルの話は、彼らを糾弾するために言ってるんじゃないんですよね。
このままじゃやばいからだという。。
そういうわけで、あきらめてしまわずに、ふんばって生きなくちゃとあらためて思う。
2015年9月8日火曜日
本日の魔法の呪文 115
"もちろん、あなたは自分を見る鏡を必要とするでしょう。そして一番いい鏡の一つは、あなたに挑戦する人たちです。一例を挙げましょう。あなたが職場の上司との間に何か問題をもっているとします。そして状況は前と同じだとする。しかしあなたは自分の側の反応に前ほどドラマを見なくなります。あなたは前ほど他人の意見に、他者の毒に反応しなくなるのです。あなたはあなたの世界にいて幸福です。そこに上司がいたとしても。"
ドン・ミゲル・ルイス 四つの約束 コンパニオン・ブック P136 より抜粋
他者の毒に反応してしまう自分をごまかすために用意された、
偶像崇拝的な楽しみが世の中にはたくさんあって、
安直に「楽しく生きよう♪」的に言われるとき、
これらの偽の喜びで気を紛らわせる、ということがほとんど。
気を紛らわせること全てが虚しくなって、「遊ぶ」という概念がすっかりわからなくなった。
テーマパークではしゃぐような高揚感との縁がすっぱり切れてしまった代わりに、
何が起こってもいつも、あたたかな自分が、
自分の中心からふわりと拡がる感覚がわかるようになった気がする。
それは、何かおもしろいこと、騒げること、ハイテンションになれることがなくても、
いつも静かに、自分の内にある。
もちろん、24時間そんな自分でいるわけにもいかなくて、
ハラッサーに嫌がらせをされたら嫌やわーと思う。はらだたしい気持ちはわきおこる。
そやけど、それがほんとうに、前と比べてまったく持続しない。
そのパラサイトからのひっかけが、わたしと関係がない、
ということをかなり理解してきたのかもしれない。
今日は、ぶたがえる(わたしがハラッサーに名付けた名前)以外の人々との時間も、
たくさんたくさんあたたかで楽しい時間があった。
わたしが出勤しているのをみつけてうれしそうにしてくれる人がたくさんいる。
ちょっとしたものの受け渡しの、手つきがとてもあたたかい人も。
言葉をとくに交わすことがなくても、目が合うだけで共感していることがわかる人もいる。
客観的に一日をふりかえったとき、そういった時間もたくさんある。
なのに、ぶたがえるのことで今日の記憶をいっぱいに塗りつぶすのかどうなのか?
どちらを自分のストーリーに強く引き入れるかは自分が決めている。
2015年8月24日月曜日
本日の魔法の呪文 104
"過去にとらわれている人間がまぎれもなく過去を一切持ち合せていないことは、
奇妙な矛盾である。
そうした人間は原初的な苦痛によって、過去から切り離されているのである。
そこで彼は、自分の歴史を無意識のうちに毎日、行動にうつしつづけなければならない。
それがために彼は、生涯を通じて大きく変ることはない。
彼は四十歳になっても十二歳のときとさして変わらない。
彼は自分の闘争のなかを左右にぬって歩き、
神経症的な儀式をおこない、
一言ごとに自分の神経症のことを臭わせ、
小さなときの家庭の状況を再構成する新しい種をたえず見つけ出している。
正常な人間は歴史を、自己の連続性を、持ちそなえているし、
それは苦痛によって短絡していない。正常な人間は、自分のすべてを持ちそなえている。"
アーサー・ヤノフ 原初からの叫び P350より抜粋
わたしが小さな頃から、脳裏にいつもちらついていたのが、巻物のような年表のイメージであり、
そしてそれは20歳をすぎたあたりからぷっつりと闇の中に溶けてしまい、そこから先がない、というものだった。
そのあたりまでは精巧に予定が組まれており、実際そのとおりにばかみたいに歩んだ。
そして、そのとおりに、ぷっつりとその先がなくなった。
今思えば、パラサイトの巻物だったのかもしれない(笑)
その頃までの人生と、その後の人生に、わたしは連続性がない。
息子との暮らしの積み重ねは、100%わたしが納得してずっと積み重ねてきたものだ。
産むときから、全部自分で納得した上で生み、そのことで生じた不利益や大変さを全部引き受けてきた代わりに、その果実も全部得てきている。
積み重ねることの尊さやあたたかみというものを、わたしは20歳をすぎるまで知らなかった。
いつもいつも、すりかえることで様々なことが断絶され、すりかえることでほっとする、
その連続で生きてきたからだ。
息子との暮らしが長くなり、わたしが時々、彼との暮らしにおける連続性を軽視しすぎるときがあるのだけれども、息子は等身大に、その尊さをかたときも忘れていない。
その証拠は、わたしがだめな母親であろうと、優しい母親であろうと、怒りん坊であろうと、
彼はいつもわたしに信頼を寄せてくれている。
あたたかな積み重ねというものは、やったらやった分ちゃんと報われるよ。
2015年8月20日木曜日
本日の魔法の呪文 100
"以前、どもっていた患者は、
自分の言語上の問題をつぎのように話してくれた。
「私のどもりは、現実を求める戦いでした。
『自分でない私』が、本当の私が顔をのぞかせるのを防ぐために話しつづけていたように思えます。私は言葉を話しはじめてからずっと、
いつも口にする言葉を注意深くえらばなくてはなりませんでした。
私は両親の考え方やことばづかいを口にするようになりました。
私は彼らが気にいることを話しました。
まるで、自分の口で親たちにしがみついていたようなものです。
現実の私が感じていることを口にしないかぎり、
私は両親に受け入れられたのです」
現実の自己に立ちかえり原初的苦痛を経験している間、
この患者は一度もどもらなかった。"
原初からの叫び アーサー・ヤノフ著 中山善之訳 どもることの深層構造 P143より抜粋
幼いころは、わけもわからず、とにかく地雷を踏まないように、
という一心で、いつも言葉を選ぶ癖がついていた。
大きくなると、それを反射的にやっていることすら意識の俎上にあがらなくなった。
そうする必要がない暮らしが長くなり、
そうやって言葉を選ぶことをしばらく忘れていたが、
今度は違う意味で、言葉を選ばねばならない日々が続く。
以前は、自分の身を守るためにそうしていたけれど、
今は、狭い意識の世界が全てだと思い込んでいる普通の人との接点をもとうとするとき、
彼らと重なり合う領域の言葉、というものを探すのがほんとうに難しい。
ばかにだけはされたくない、という構えで戦々恐々と生きている人とは、
心を開いて話をすることはできない。
開いた方が弱みを握られ、低い側に置かれる、というルール内に彼らは生きているから。
そういう人々に取り囲まれ続けていると、
わたしの方が人間としておかしいような気がしてくる。
2015年8月11日火曜日
本日の魔法の呪文 94
"「魔女の宅急便」の世界においては、すべての好意がそのまま受け入れられることが理想とされている。しかし、それは現実には不可能だ。それでも、映画のなかで理想が実現されているようにみえるのは、おばあさんの例(※ にしんのパイのエピソード)が示すように、真実が巧妙に隠され、登場人物が現実と直面しないでもすむように仕組まれているからである。"
映画は父を殺すためにある 嶋田裕巳 P99より抜粋
わたしは、アニメはあまり好きではないけれど、
ジブリの作品は全部ではないがわりとみている。
が、ジブリの作品をみていて常に感じる立ち位置は、
ハラスメントの被害者側、というものだなぁとあらためて思う。
ジブリのスタジオの立地が、ありえないくらい電磁波環境が劣悪(発電所だか変電所の真横)であるということからもいろいろ思うけど、
ジブリの、あまりにもできすぎて美しい高度な芸術の世界観は、
かえって、現実と直面し、現実を変え、
ほんとうに幸せに生きることからどんどん遠ざかるためのツールとして
とても役立ってしまったのではないだろうか。
偶像崇拝のつもりではなく、その奥にある真実を伝えるために技を磨いたのに、
その技に魅了された多くの人々は、そこで思考停止し、
巧妙に隠された(というか、本人がみたくなかった)現実はそのままという、、、
今のわたしが立ち向かわなければならないテーマは、
どうしても分かり合うことができない、分かり合うキャパがない存在に、
無駄に執着しないということかもしれない。
どんどん低いところに降りていき、手取り足取り丁寧に指南すればするほど、
相手はぼんやりと曲解するだけなのだ。
そうしたい、と思ってしまう理由は、
自分の中に、そうしないと自分の存在価値が見いだせない、という
おかしな思い込みがあるからかもしれない。
そんな奴らを説得しなくても、
ただ楽しく生きればいい。毎日の、めまぐるしく切り替わる様々な感情を、
抱くときに罪悪感を感じる必要なく、淡々と全てを味わえばいい。
「それをひととおり味わって生きてごらんよ」と
言ってくれているところまで、やっとたどりついたのかも。
2015年8月10日月曜日
本日の魔法の呪文 93
"おとなは自分の子どもの魂を、
まるで自分の持ち物のように扱い、
そのやり方は全体主義国家が自国民を扱うやり方と変わるところがありません。
けれども、たとえいかなる全体主義国家であろうと、
おとなは、赤ん坊の権利を無視する親の手にかかった赤ん坊のように、
何もかも好き勝手にされてしまうということはありません。
私たちが幼い子どもの苦しみに対して敏感になろうとしない限り、
このような、おとなの子どもに対する専横は、
誰にも気づかれず、誰もまともに問題にせず、いつも無視されつづけることでしょう。
「たかが子ども」の問題なのですから。"
才能ある子のドラマ アリス・ミラー著 山下公子 訳 P123より抜粋
ほんとうに憎むべき存在、
許してはならない存在
(というか、行為)
を見据えることができない限り、
自分もまた、理不尽な加害的行為を無意識にやってしまう側になる。
この、自分の中に深く刻まれている、過去だけれども幻影として今もとてもリアルである
「やるかやられるか」の感覚。
この感覚から逃げようとしてしまうと、
一気に無気力になったり、人生がどうでもよく感じられたりする。
楽しく生きよう、という生の感覚を思いだすときに必ず、
この痛みを伴う、決して思いだしたくない感覚が連動してくることから、
たぶん一生逃げることはできない。
だからこそ、その感覚から逃げちゃいけないのかもしれないね。
それが、キリスト教における十字架のようなものかもしれない。
2015年8月3日月曜日
本日の魔法の呪文 86
" リンダの物語『ある奴隷少女に起こった出来事』は、
米国の白人、黒人双方にとって、複雑な感情を抱かせる。
白人が悪人、黒人が善人という二項対立での記述はなされていない。
善き白人で、黒人に対して同情的であっても、
経済的に困窮すると黒人奴隷を平気で売り渡す。
奴隷から解放された自由黒人でも、白人に過剰同化し、逃亡奴隷狩りの尖兵となる。
構造化された差別は、白人、黒人の双方を疎外し不幸にする。
本書を読むことによって、米国人は良心を刺激される。
そして、あのような米国と訣別し、新しい国をつくらなくてはならないと決意するのだ。
ここに米国の強さがある。"
ある奴隷少女に起こった出来事 ハリエット・アン・ジェイコブズ 堀越ゆき 訳
佐藤 優による解説 P309より抜粋
この話は、フィクションではなくノンフィクションである。
平易でわかりやすい訳が素晴らしく、
訳者さんが自分や、日本の多くの女性がおかれている立場から考えて、
他人事と思えず、訳さずにはいられなかった、と後書きで書いてらっしゃったが、
竹取物語のアメリカ版、的な実話だと思って読んだ。
主人公であるリンダが一貫して大事にしていることと、
かぐや姫が大事にしていることは同じ。
そして、この両者が大事にしていることを、日常を生きるわたしたちが実践することは、
極端な境遇に置かれたかぐや姫やリンダと違い、
一見平穏な世界に生きているように思える(思いたい)わたしたちにとっても
困難さは変わらないか、あるいはそれ以上に強いものだとわたしは感じている。
世の中のいじめや意地悪や凄惨な事件というものは、
この大事なポイントをぶんなげた人々が、ぶんなげていない人々が憎らしくてたまらなくて、
嫉妬にかられて暴れ回っているだけ、とも言えるとわたしは思っている。
そこだけは思いださないように生きているのに、
ぶんなげていない人を見るとどうしても思いだしてしまうのだ。
白人や黒人の二項対立が愚かだと、神学者であり、
自らも収監された体験を持つ佐藤さんが指摘しているけれども、
どんなものでさえ偶像崇拝になりうるように、
誰もが加害者・被害者双方になりうる、パワーゲームの中に生きていることに、
もっとシビアにならないと、といつも思う。
ミゲルの四つの約束に、プラスもうひとつ加えられた約束の内容がまさに、
疑うということの大切さだった。
疑うのは外部に対してではなく、自分が、今、どういう気持ちに根ざして、世界とかかわっているのか。それによって、同じ行為は簡単に黒魔術にも白魔術にもなる。
その鍵を握るのは自分。
どうしようもない状況に生きながらも、その中でやれることというものは常にあって、
そのことを放り投げてしまったらほんとうに終わり。
2015年7月29日水曜日
本日の魔法の呪文 81
" 私が学んだのは、
私の感情的な苦しみは決して他の人のせいではないということです。
それは私の夫のせいでも、子供のせいでも、
両親、友達、あるいは雑貨店で出会う誰かのせいでもないのです。
それはいつも私にだけかかわることなのです。
他の誰かが何を考え、何をしようとも、
それは私には関わりのないことです。
それはつねに彼ら自身のことです。
何という信じがたい安らぎ!"
四つの約束 コンパニオンブック ドン・ミゲル・ルイス 大野龍一訳 P208 より抜粋
自分の内側にある平穏は、誰にも奪われずいつもそこにある、
ということを忘れないこと。
そのことを忘れなければ、よくわからないまま受け取ってしまったトランプのババを、
そのまま誰かにおしつけ、それが永遠に循環してしまうような
悲しい連鎖を止めることができる。
チェーンメールというのは最近もうあまりきかなくなったけど、
たくさんの人に回さないと自分が呪われる、といった、
あのババ抜き感覚が、世の中の意味不明な争いの根源だと思う。
いくらそこに呪いのエネルギーが込められていようが、
こちらが受け取らなければ、それはそのまま通過していく。
過去に受け取ってしまったものも、自分で解除すればいい。
ババに付加されている意味を消去し、
むやみに次に回すのを自分で止めることができれば、
誰よりも自分が一番安らぐ。
2015年7月24日金曜日
本日の魔法の呪文 76
"「蛇を敬うことをお忘れなさるな」ランプを持った老人がいいました。
「あなたはご自分の命を、あなたの民はこの橋を、蛇からもらったのです。
この橋によって両岸がつながり、一つの国として活気づきました。
あの、ただよい光っていた宝石、蛇が犠牲にささげたそのなきがらが、
このりっぱな橋の基柱となり、その上に、蛇はわが身で橋を築きました。
後々まで小ゆるぎもしないでしょう」"
メルヒェン ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ 乾侑美子 訳 P54より
欠けたものどうしの引き合い、
相互依存はもういやだ、
ということがはっきりわかると、
欠けたもの同士での取引を望む人や場とのかかわりが起こらなくなる。
かかわりたくても、逆に嫌がられてもう関われない(笑)
ここまでくれば、もう大丈夫。
蛇は橋に変わったのだ。
2015年7月20日月曜日
本日の魔法の呪文 72
" いわゆる確実で厳密な真理というものを求めた人々は、
特定の種類の「傷」を帯びているのではないか。
その傷の隠蔽から生まれる特定の種類の「不安」から、
確実性と厳密性への渇望が生まれ、
これがいわゆる「科学」や「哲学」を生み出してきたのではないか、と私は思うのである。
(略)
もしも、魂の傷に「よりマシ」なものなどないとすれば、
古代の聖人の教えるように、
自らの魂の帯びる傷そのものから目を背けぬように努力し、
自らを治癒し、
成長させていくこと以外に、
真の智慧に到達する道はない、ということになる。
これが「魂の脱植民地化」の必要性の根拠だと私は考えている。"
合理的な神秘主義 生きるための思想史 安冨 歩 P290 より抜粋
ものすごくものすごくおおむかしには、
「かたち」というものは、
ほんとうにイチから自分で生み出さないと存在し得ないものだったから、
何かがかたちとなって具現化される、ということにすごく大きな意味があったし、
それをすることがすごいこと、だったように思う。
けれど今は、かたちはいくらでもそこらじゅうに転がっていて、
自分でかたちを生み出す隙間がほとんどない。
ほとんど、既にもうその辺に転がっている形骸化した記号を拾い集め、
また並べ替えるくらいしかできない。
命のエネルギーを、自分と世界との間で循環させることが、
何かを生み出すことのおおもとであるとするならば、
今は逆に、あえてかたちにしないで循環を生じさせることに、
いちばん熱くほんもののエネルギーが流れるのではないか。
そういう風に感じるのはわたしだけかもしれないが、
現時点のわたしにとってリアルな感触はこれなのだ。
これがすぎたら自然に、かたちに落としたくなる時がくるだろうが、
このよくわからない見えない世界をしっかり通るということを経ないと、
次がない。
人によってきっと、そういう時期は必ず巡ってくる。そういうものなのかも。
2015年7月19日日曜日
本日の魔法の呪文 71
" 暴力を深く感じると、そのエッセンスを発見しない限り、
苦しみは消え去らないことが分かるだろう。
「私たちは単に復讐しているのではないことに気づいてください。
私たちは平等を追求しています。」 "
アーノルド・ミンデル 訳 青木聡 監訳 富士見ユキオ ディープ・デモクラシー
第10章 戦争の予防 P256 より抜粋
今日のお絵描き、横向きに描いて、横向きにアップロードするはずが、
この向きから変わりません(笑)
「8」に見えてしまうこの状態で感じろ、ということのようです。
わたしたちは安穏とした世界に生きたいという理由で、
やっかいなエネルギーをすっぱりシャットアウトする。切り捨てる。みないふりをする。
けれど、その切り捨てたことで余計に、自分の中に不安や緊張が渦巻く。
その切り捨てたものをちゃんと拾い上げ、
一体何を訴えているのか、
に向き合って葛藤を引き受けたなら、
その後に深いほんとうの意味での平等と平穏がやってくる。
「自分とは関係ない」が全ての暴力のはじまり。
2015年7月16日木曜日
本日の魔法の呪文 68
"ベルイマンは当時たびたびドイツに行くことがあったのに、
一九四五年になるまで国民社会主義(ナチズム)
の正体を見破ることができなかったと後悔を込めて語っていましたが、
それも、ベルイマンのこの子ども時代を考えれば、
当然のように思われます。
残酷さはベルイマンが子ども時代から呼吸し、
なじんでいた雰囲気だったのですから、
どうしてそれをおかしいと思うはずがあるでしょう。"
アリス・ミラー 山下公子 訳 才能ある子のドラマ 真の自己を求めて P130 より抜粋
自分の感情さえ放り投げずに生きることができたなら、
ああ、生きていて良かったなぁ、
と思えるときが必ず来ます。
そして、それを他人と分かち合えるときも必ず。
ああ、放り投げて生きてしまっているなぁと気づけたなら、また取り戻せばいい。
取り戻す覚悟を決めたなら、
感じなくすることで乗り切れていた、逃げきっていた要素に立ち向かわねばならない。
感じることを取り戻すと、悶絶するような辛い過程を一時必ず通ることになる。
今までにこにこと表面的につきあえていた人達が、
一気に豹変してさーっと周りから離れていく。
いきなりろくでなし、人間に非ず、といわんばかりに罵倒されたりする。
そこを通ることでやっと、
ああ、自分はどれだけ偽物のの関係に囲まれていたか、にはっと気づき、
更地にすることができる。
ここを通ったことがある人同士だから分かち合える世界というものがある。
今その真っ只中で、
真っ暗闇を一人で手さぐりで歩いているような気分の人もいるだろう。
大丈夫。
その先は必ず、あたたかい世界が開ける。
2015年7月15日水曜日
本日の魔法の呪文 67
"前世でのあなたは、演繹的な方法で目標を達成してきました。
つまり集めた情報と周囲の人々の希望を総合評価して結論を出してきたのです。
(略)
前世ではうまくいったこの方法は、
残念ながら今生のあなたには使えないことになっています。
使えるのは帰納的な推論の仕方です。
(略)
今生でのあなたは非論理的になってよいのです。
過去に論理を駆使しすぎたため、
どんなものにも真実を引き出すことができ、
結果としてあらゆるものに「それなりの正当性」を認めてしまうのです。
このため今生でのあなたは、
どんなに論理を駆使しても正しい結論を引き出すことができません。"
前世ソウルリーディング あなたの魂はどこから来たのか ジャン・スピラー 著 東川恭子 訳
ドラゴンヘッド 射手座 第9ハウスP374より抜粋
わたしはヘッドが射手座にあるわけではないのですが、
自分がずぶずぶと沼に沈むような状態になるときは、
たいていこのドグマにはまっています。
辞書によると、
演繹的とは、
与えられた命題から、論理的形式に頼って推論を重ね、
結論を導き出すこと。
一般的な理論によって、特殊なものを推論し、説明すること。
帰納的とは、
個々の具体的な事例から
一般に通用するような原理・法則などを導き出すこと。
と書いてありました。
これは、演繹的=他者目線、帰納的=自分軸
という風に言い換えてもOKですよね。
演繹的に筋が通らないことは世の中に基本的にないです。
なにかしら、筋が通ったストーリーで説明をつけることは簡単。
筋が通っていればだいじょうぶ、というのは大きな落とし穴。
今日のこの引用箇所は、
普段から周囲の状態をつかむことがうますぎるタイプの人向けだと思います。
この裏返しで、もっと状況をちゃんと把握した方がいい人もたくさんいます。
(てか、普通そういう人ばかりなのかも、、、)
周囲の状態を的確にいつも察知する人こそ、
察知しているけれど反応しない、ということを大事にする。
そうでなければ、全く察知能力がなく、
ただ傍若無人にふるまっている、
声が大きい人にひきずられてまわっていくことを容認するだけになってしまう。
それじゃ、察知能力があることが全く無駄.............
心の中で、パラサイトがささやく時は、論理で裁いてきます。
そういう声にからめとられないように、
なんか変、むずむずする、というときは、あせらずに行くといいよね。
2015年6月30日火曜日
本日の魔法の呪文 52
"<ドロモマニア>はポール・ヴィリリオが『速度と政治』で使った言葉である。
この書は、人と文化が躁病の域にまで速度にとりつかれ、
動き続け、加速し続けることを論じたものである。
<宇宙的音楽>に加速が起きたとしても、
それはどこにも行き着かない。
ただ孤独に速さを増すだけだ。
それは動きの昂進でしかない。"
ノイズ/ミュージック歴史・方法・思想 ルッソロからゼロ年代まで
ポール・ヘガティ 若尾裕 嶋田久美訳 P139より抜粋
わたしがここまで極端な生き方になってしまったのにはいろいろ理由があるのだけれど、
そのひとつに、ピアノという楽器を通じて、
人間機械みたいにふるまうと最終的にどうなるか、
ということをやりつくしたところに根っこがあります(笑)
今思えば20歳前後ぐらいで、
本来なら生きている喜びを一番謳歌する年齢の頃、
わたしは史上最大にその要素を否定して生きており、
その帰結として、
命の喜びの反対である、
権威主義的な方向に音をとらえる方に突っ走っていた。
愛の反対は権威主義だと思うのだけども、
通常、支配側と被支配側、どっちがいい?と問われたとき、
迷わずだれでも支配側を望むだろう。
権威主義の構造が、共依存の構造と同様、
支配しているつもりが支配されており、
依存しているつもりが依存されている
という構造であることに気づいていない人は多いけれども、
中にとっつかまっている人はおおまじめで、
片側の役しかやりたくないと本気で思っている。
耳障りが悪い音楽が身体にもたらす効用は、
自分の人生からストーリー性を完全にとりさってたたきおとす点にある。
このことで、権威主義の構造の中で担わされている片側の役から、
一瞬解放されたかのようだけれども、
同時に、別のストーリーを編むわけではない。
たたきおとしてばらばらにされるだけなのだ。
その結果、
正気を取り戻したらまた、悪夢の延長であることを思い知る羽目になる。
わたしはアナログ人間なので、この要素を孕んだ音楽を自分で演奏したら
いったいどうなるのか、ということを当時徹底的に好んでやり、
そのことで、自分もまわりも誰も幸せにならないということを痛感したのでした。
この救いようのないループがパラサイトの構造そのものであり、
そこからまったく無縁な世界を生きるために必須なことは、
それこそ「モモ」にでてくるカシオペイヤが甲羅に光らせた
「オソイハハヤイ」
というあの文字なのだ。
わたしは徹底的に、世の中が要求してくる器用さを身につけ、
けれど心の一番深いところで人間らしさを捨てきれていなかったが故に、
器用さで逃げきることができず、ずっこけまくる人生を歩んできた。
もうこれ以上こけて落下する、下がないところまできてようやく、
「速い」ということが諸悪の根源であることに気づいた。
そんなわけで、迷ったら何もしない。迷ったらスピードを落とす。
このことを、人生の一時期、
徹底的に味わってどうなるかやってみてもいいだろうと思い、
実験中です。
2015年5月19日火曜日
本日の魔法の呪文 10
"治癒のためには、
ネガティブに考える勇気を奮い起こさなければならない。
私の言う「ネガティブ思考」は、
現実主義(リアリズム)を装った暗くて悲観的な考え方ではない。
それはむしろ、
何がうまくいっていないのか考えてみよう
という姿勢なのである。
バランスを乱しているのは何だろう?
私は何をないがしろにしてきたのだろう?
私のからだは何に対してノーと言っているのだろう?
こうした問いかけをしないかぎり、
私たちのバランスを乱しているストレスはいつまでも隠れたままなのである"
身体がノーと言うとき ガボール・マテ
きちんと現状認識をすることは、
トルテックが言う「ストーカー(戦士)」と同義。
そのことではじめて、外から押しつけられている悪夢から脱し、
自分の夢を作り出して生きることがはじまります。
葛藤の場面で、責めてくる心の声はどんな声色をしていますか。
その声を聞いておそろしくなったり、どうせ自分はだめだ、と思わされるなら、
それは嘘。
パラサイトからの誘惑。
「だからどーした!」「それが何か?」と思いっきり無視しちゃいましょ。
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