2015年6月30日火曜日

本日の魔法の呪文 52


"<ドロモマニア>はポール・ヴィリリオが『速度と政治』で使った言葉である。
この書は、人と文化が躁病の域にまで速度にとりつかれ、
動き続け、加速し続けることを論じたものである。
<宇宙的音楽>に加速が起きたとしても、
それはどこにも行き着かない。
ただ孤独に速さを増すだけだ。
それは動きの昂進でしかない。"

ノイズ/ミュージック歴史・方法・思想 ルッソロからゼロ年代まで 
ポール・ヘガティ 若尾裕 嶋田久美訳   P139より抜粋


わたしがここまで極端な生き方になってしまったのにはいろいろ理由があるのだけれど、
そのひとつに、ピアノという楽器を通じて、
人間機械みたいにふるまうと最終的にどうなるか、
ということをやりつくしたところに根っこがあります(笑)


今思えば20歳前後ぐらいで、
本来なら生きている喜びを一番謳歌する年齢の頃、
わたしは史上最大にその要素を否定して生きており、
その帰結として、
命の喜びの反対である、
権威主義的な方向に音をとらえる方に突っ走っていた。

愛の反対は権威主義だと思うのだけども、
通常、支配側と被支配側、どっちがいい?と問われたとき、
迷わずだれでも支配側を望むだろう。

権威主義の構造が、共依存の構造と同様、
支配しているつもりが支配されており、
依存しているつもりが依存されている
という構造であることに気づいていない人は多いけれども、
中にとっつかまっている人はおおまじめで、
片側の役しかやりたくないと本気で思っている。


耳障りが悪い音楽が身体にもたらす効用は、
自分の人生からストーリー性を完全にとりさってたたきおとす点にある。
このことで、権威主義の構造の中で担わされている片側の役から、
一瞬解放されたかのようだけれども、
同時に、別のストーリーを編むわけではない。
たたきおとしてばらばらにされるだけなのだ。
その結果、
正気を取り戻したらまた、悪夢の延長であることを思い知る羽目になる。

わたしはアナログ人間なので、この要素を孕んだ音楽を自分で演奏したら
いったいどうなるのか、ということを当時徹底的に好んでやり、
そのことで、自分もまわりも誰も幸せにならないということを痛感したのでした。

この救いようのないループがパラサイトの構造そのものであり、
そこからまったく無縁な世界を生きるために必須なことは、
それこそ「モモ」にでてくるカシオペイヤが甲羅に光らせた
「オソイハハヤイ」
というあの文字なのだ。


わたしは徹底的に、世の中が要求してくる器用さを身につけ、
けれど心の一番深いところで人間らしさを捨てきれていなかったが故に、
器用さで逃げきることができず、ずっこけまくる人生を歩んできた。


もうこれ以上こけて落下する、下がないところまできてようやく、
「速い」ということが諸悪の根源であることに気づいた。

そんなわけで、迷ったら何もしない。迷ったらスピードを落とす。

このことを、人生の一時期、
徹底的に味わってどうなるかやってみてもいいだろうと思い、
実験中です。

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