2015年6月13日土曜日

本日の魔法の呪文 35


"彼女は最近蝋燭に飛び込む蛾についての、物語形式のエッセイを出した。
今、仕事がうまく行かないのでポップコーンを作って本を読もうとしていると、
男の子が匂いにつられてやってきた。子供はその蛾の話を読んでいたらしい。
机の上のペン描きの、もえさしの蝋燭の絵をみて、
「蛾が飛び込んだというのはこの蝋燭のこと?」
とたずねる。そして「あなたがあのお話を書いたの?」
彼女が答えようとすると彼はつづけた。
「それともタイプしただけ?」"

Papyrus letters 1996.11 No.10  文字を書く 多田智満子  より抜粋


このエピソードは、アニー・ディラードの本を書く、
の中にはさまっていたニュースレターの一部。
ここで書かれている「彼女」は、アニー・ディラードのことかな。

昨日友人と、複製するということの持つ偶像崇拝性についていろいろ話をしていました。

生きている間に銅像を立てると、
立てた人は早死にしたり、病気になったりするのでやめておけ、とか
写真を撮ったら魂が抜かれるという話の延長に、
ネットという悩ましいツールが置かれているように思います。

かたち(ひとがたのようなもの)だけががらんどうのまま暴走し、
そのクローンの数だけ、
本来本人のところに循環するはずのエネルギーが分散するから
よくない、というからくりはとてもよくわかります。

が、一方で、みたくないものと向き合い、自分の全体性を取り戻すツールとして、
不特定多数とつながるネットというものの有用性を痛感しています。

現時点でわたしは、他人が理解してくれるか否かに関係なく、
どんなツールにかかわるときも、
常に自分がここにおり、自分に対しての偽りがない状態でかかわることに徹しています。

この在り方のまま、このあぶなっかしいツールとかかわり続けることで
すっかり嫌になるのか、それとも、新しい時代ならではの境地が開けるのか、
地味に試していきたいところ。


「それともタイプしただけ?」にならないために、どう生きるか。
いつもこのことが頭からはなれません。

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